元康一行が木下藤吉郎と出会っていた。ちょうどその頃、遠州井伊谷では藤吉郎と瓜二つの風貌の男が井伊家に家臣兼商人として仕えていました。 #どうする家康 #おんな城主直虎
本多正信と本多忠勝は同じ本多一族ながらかなり遠い親戚で(7代前の先祖が兄弟)ほぼ他人に近く、忠勝は正信を「腰抜け」「あんなヤツは本多一族じゃない」と罵倒し終生にわたって不仲であった。 #どうする家康
榊原康政は酒井忠次の叔父の家来、つまり元康からすれば陪臣(家来の家来)であり、その身分は低く貧しかったが、康政はその才知と学問、そして武勇を元康から認められ小姓に大抜擢されていた。 #どうする家康
岡部元信殿が関口家の人々を牢獄から引き出していたちょうどその頃、遠州井伊谷では瓜二つの風貌の男が大汗をかきながら井伊家のために働いていました。 #どうする家康 #おんな城主直虎
捕虜となった鵜殿氏長(1549~1624)・氏次(?~1600)兄弟はその後今川家に戻るが今川家滅亡後は家康の家臣となった。氏長は家康・秀忠の側近として活躍、一方氏次は関ケ原前哨戦の伏見城攻防戦で鳥居元忠と共に戦死している。#どうする家康
上之郷城の陥落以降、東三河・遠江の国衆の間にも動揺が広がり、今川家からの離反の動きが出始める。井伊谷の領主の井伊直親が謀反の嫌疑で今川家臣によって誅殺されたのは、人質交換が行われた直後の永禄5年3月(または同年12月)の事であった。 #どうする家康 #おんな城主直虎
千代(望月千代女、生没年不詳)は戦国期の伝説的な歩き巫女。信濃の名門豪族・滋野一族の嫡流である望月家の出身とされる。彼女自身は近江国甲賀郡の生まれで、甲賀流忍術を修めたくノ一だったともいわれる。 #どうする家康
多くの松平家家臣がそうであったように、本多正信も熱烈な一向宗の門徒であった。一揆軍の軍師であり、また自ら何度となく家康の生命を狙ったという。正信の弟の本多正重も兄と共に一揆軍に参加し戦っている。#どうする家康
夏目広次はその忠誠心や武勇を惜しんだ松平一族の松平伊忠や家臣らから「忠義の士である」として助命嘆願が出され許された。後に三河・遠江の郡代として登用され、以降は忠義を尽くした。ちなみにこの広次の子孫が明治の文豪・夏目漱石である。 #どうする家康
本多正信は三河を出る際に家族を大久保忠世に預けていったという。正信の妻はこの時妊娠していたようで、翌年の1565年、嫡男の本多正純が生まれている。 #どうする家康 #葵徳川三代
望月千代女については確かな記録が殆ど無いが、一説には信州佐久の国衆・望月盛時の妻だったとされる。望月家は同じ滋野一族である真田幸隆の調略によって #武田信玄 に臣従、第4次川中島の合戦で盛時が戦死後、妻の千代女は信玄から歩き巫女の頭に任じられ諜報活動に従事したという。 #どうする家康
武田信玄がこのタイミングで駿河侵攻を決断した背景には、今川家の実力者であった氏真の祖母・寿桂尼の死を待っていたというのがある。かなりの老齢だったとはいえ寿桂尼の存在はそれだけ信玄を警戒させていたとも言える。 #どうする家康 #おんな城主直虎
ここで登場する「三浦」とは今川家重臣である「駿河三浦家」のこと。かの三浦義村の庶長子・朝村の子孫が駿河に居住して国衆化し、今川家に仕えて重臣となったものだとされる。駿河三浦家は今川氏真を見限って一旦は武田家に付いたが、後に徳川家に臣従し生き残った。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
当時、政略結婚で他家に嫁いだ女性は実家の利益代表者であり、実家から婚家へと送り込まれた外交官兼スパイとしての側面も持っていた。お市の行動は当時の女性としては常識的なものであり、それによって本人が責められる事も無かった。 #どうする家康
#何年たっても忘れられない大河ドラマ 「青天を衝け」 全く期待していなかったので、ある意味虚を突かれたような良作だった。渋沢栄一という馴染みの浅い人物を演じきった #吉沢亮 氏の熱演と、徳川慶喜の評価を一変させた #草彅剛 氏のしなやかな好演が印象的。
『甲陽軍鑑』の記述や武田家侍医の残した書状によると、武田信玄は「膈(かく)」という持病を患っていたという。これは現代医学でいう胃癌・食道癌など消化器系統の癌にあたるとされる。#どうする家康
源三郎は史実では本来今川家に人質として出されていたが、今川家臣の三浦与一郎なる者が主家を裏切り源三郎の身柄をを信玄に引き渡したのである。ちなみに三浦与一郎は経歴等は不明だがかの三浦義村の庶長子・朝村の子孫である「駿河三浦家」の一族だと考えられる。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
武田勝頼は勇猛果敢で武芸に優れ、『甲陽軍鑑』に「強過ぎたる大将」と評されるほどであった。側近たちも選りすぐりの精鋭たちであり、その中には真田家出身の加津野信昌(後の真田信尹)も居た。 #どうする家康 #真田丸
山県昌景率いる「赤備え」は元亀3年(1572)10月22〜23日に一言坂の合戦(現・静岡県磐田市一言)で本多忠勝隊を撃破、その勢いに乗って10月末には井伊谷に迫り、井伊直虎・近藤康用らは井伊谷城を捨てて逃亡、これにより独立国衆としての井伊家は事実上滅亡した。 #どうする家康 #おんな城主直虎
1573年 主要人物年齢一覧(満年齢) 徳川家康 30歳 瀬名   33歳 織田信長 39歳 酒井忠次 46歳 石川数正 39歳 本多忠勝 25歳 本多忠真 42歳 夏目広次 55歳 榊原康政 25歳 鳥居元忠 34歳 山県昌景 49歳 木下藤吉郎 36歳 佐久間信盛 45歳 武田勝頼 27歳 武田信玄 52歳 #どうする家康
正室は単に当主の正妻というだけでなく当主の留守中はその職務の代行者であり、当主が死亡した場合次期当主の後見役や、状況によっては「女城主」として領国を支配する事もあり、その権限は強いものであった。 #どうする家康 #おんな城主直虎
水野信元は家康に無断で前線を離れただけでなく、一気に岡崎まで逃げ戻ったという。武田家への内通すら疑われるこの行動は織田信長の不審を招いたとされ、後の彼の運命に大きな影響を与える事となる。 #どうする家康
家康は夏目広次の命懸けの忠義を称え岡崎・法蔵寺に彼の墓を建立し手厚い供養を命じた。江戸幕府成立後、彼の三人の男児をはじめとする夏目一族は旗本に取り立てられた。広次の五男・夏目吉次の子孫が明治の文豪・夏目漱石だとされている。 #どうする家康
於万は瀬名の承認なく側室となったが、これは正室の側室承認権を侵害する行為であった。当時の正室には側室の出産の承認するか否かの権利も持っており、於万の妊娠・出産を事後承認する事は正室の権威の失墜であり断じて認められなかった。 #どうする家康