海法 紀光(@nk12)さんの人気ツイート(古い順)

一方で、民間からの突き上げによる自主規制の問題も重要ですが、これは政治では介入しにくいんですよね。政治が民間の行動に口を出すのは、それはそれで権力濫用でまずいので。 そういうのは、民間団体で対抗するのが妥当かと思います。日本漫画家協会とかですね。
赤松氏が、(性、暴力描写のある作品が)単純所持が許されなくなる未来について述べていた動画を見ましたが、そうした直接の政治的規制は、松文館裁判にせよ、BL有害図書指定にせよ、児ポ法の際にせよ、主に自民党がやっていることを、忘れてはいけないでしょう。
そうした民間団体が特定の党にあまり近づきすぎると、業界団体として動きにくくなる問題があり、特に、表現規制を気にするなら自民党からは距離を置いたほうが、批判がしやすいかなと。
もう一つ重要なのは、読者(視聴者)の声ですね。 大きな会社が、苦情に押されて、ことなかれ主義になりがちな時、それを引き留めるのは、客の声です。 良いものに、どんどん良いと声をあげてくことは、過度の自主規制を止める役にも立つと思います。
選挙は「○○が勝つと/勝たないと日本が終わる」みたいな文をよく見ますが、実際問題すぐに「終わる」ことは少ないでしょう。でも長期では影響がある。 「さんざん警告されたけど別になんてことなかった」という肩すかしは「投票なんか意味ないじゃん」に繋がりやすいので、そこは気をつけないとなと
創作が人を傷つけないというのは勘違いで、「どう見てもダメだろってくらいに人を傷つける創作(ド直球で差別的なやつとか)」は、たいていの商業では企画が通らないので、目につきにくいだけです。 その商業基準というのも時代ごとに様々な話し合いを経て作られてるわけです。
商業基準や自主規制について、私はやりすぎだろう、と感じる時が多いですが、一方で、ここが足りないという意見もある。今の基準も時代ごとに色々な人が意見を出して変わってきたわけで、これからも変わっていくでしょう。 創作が社会の一部である以上、そうした話し合いは社会への責任の内です。
自分が高校くらいの時「宗教と科学の違いは批判精神」とか思ってました。そんなことはなくて宗教やってる人も様々に悩み、疑い、考え、その集積を言葉にしてきたわけで、膨大な神学や教理があるわけです。その懐疑は、科学の懐疑と必ずしも一致しませんが、だからといって軽視していいものではない。
そうした話とは別に、洗脳カルトとかは勧誘のプロなんで、「批判精神があるから引っかからない」なんて思ってると、間違いなくカモになります。 頭のいい人が何百時間もかけて練り込んだノウハウで攻め込まれたら、普通は勝てません。 近づかないのが吉。
デウス・エクス・マキナは、ゲームとかより前から、「機械仕掛けの神」という訳語が多かった気がする。 その訳語を見た自分は、吊されて登場する舞台装置である神=機械ということだと思ったのだけど、文法的には「機械(舞台装置)から出てくる神」で、神は機械じゃなかったんですな。
そういえば「指輪物語」が、アメリカではヒッピー世代のバイブルだったわけで、小さな、見過ごされていたものたちが立ち上がり手を結び圧制者を倒すという、反体制、革命の話として受容されていた、というのも、日本だと気づきにくいかも。 ハリウッドとかではその文脈が今も生きてる気が。
差別は、その時々の社会構造と組み合わさっていることが多いので、変えるためには社会構造自体を変えていく必要がある。単に「差別心を持つ悪い人がいる」という話ではないのだ。 でも、そこから「だから、差別改善は、非現実的」みたいに開き直るのは、単なる「差別心を持つ悪い人」の例だろう。
社会構造を変えるのは、すぐに簡単にできることではないから、その難しさを指摘するのは大切なこと。 でも、それは「難しい問題を、どこからどう攻めていくか」という話であって「難しいから、差別は正しいのだ」となってはいかんよね。
スーパーマンの息子(Superman: Son of Kal-El)、エピソードが一区切りついたので、タイトルが変わって新展開( Adventures of Superman: Jon Kent)という発表があったのだけど、新展開のとこを無視して、打ち切りだ、というとこだけ広めてるサイトを幾つか確認。 スルーしてよいかと。
例えば、スーパーマンやキャプテン・アメリカがベトナム戦争に反対するコミックがあって、それは、その時、アメリカがベトナム戦争を行っていて、コミック作者も会社も、そこに反戦の意を表明した、ということにも価値があると思うんですね。
そういう背景を取っ払って、ベトナム戦争とかしらない人から見た、物語自体の面白さ、という評価軸もあるけど、それと同時に「社会的なメッセージを述べた」ということを評価する軸もあっていい。
もちろん、社会メッセージ軸ばっかりで、物語がつまらない場合もあり、そういう作品ばかりになってほしくない、というのはわかりますが。 ただ、物語は社会と切り離されたフィクションであるべきだ、とは思わないのです。 手塚治虫や白土三平の作品だって、そういう風には評価できない。
Twitterでは、facebookやインスタ、マストドンの自分のidを書くのも禁止(検索よけなどでわかりにくく書いてもダメ)という新ポリシーだそうで。 流石に困るな。 twitter.com/twittersupport…
thesmatteringnews.com 情報元のサイトは「真実じゃないけど、真実になるかもしれないニュース」。 つまり、ネタニュースサイトで、事実ではないです。 twitter.com/ryouzi_r/statu…
痴漢行為は性暴力。痴漢があったと証明できない場合もあり、冤罪が発生する場合もある。 だからといって、痴漢行為が性暴力であるのは変わらない。 同じように、同意のない性行為は、性暴力です。どう証明するか、冤罪をどう防ぐかは別の話です。 twitter.com/yamadataro43/s…
昔、「ボディスナッチャーズ(盗まれた町」と言うSFを読んだ。見知った隣の人々がエイリアンに入れ替わってゆくやつで、そのタイプの話を初めて読んだ自分は、心底、ドキドキして眠れないほどだった。 で、確か、解説に「これは、当時の、アメリカの共産圏への恐怖を題材にしたもので」とあった。
それを読んで、なんか裏切られた気がした。当時の自分は、ソ連やら赤狩りやらについては無知で、それでも面白かったんだから、エイリアンの侵略を共産圏の洗脳やら転向やらに読み替えるのは安直で無粋ではないか。突き詰めて言えば、俺の感動に水を差すな! という印象を得たことを覚えている。
ただ、その後、歳を食って、当時のアメリカを知り、ジャック・フィニィという人を知り、同種の侵略SFを色々読むにつけ、作品、作者の繋がり、文脈を語る時、共産圏への恐怖の影響はかなり大きく無視できないな、というのは、納得した。 それはそれで意味がある観点だ。
作者も作品も、社会に影響を受ける。一方で、影響の受け方は様々だし、それが作品の価値の全てではなく、それと関係なく作品を楽しんだ人の感想を否定するものでもない。 色々な読み解き方があってそれぞれおもしろい、というところに辿り着くまでにずいぶん時間がかかった。
崩壊スターレイル、さすが、三体の国だなって感じで、SF的な小ネタがあちこちにあって面白い。 不老不死を達成した民族の盲目の才女。不老不死故に、身体の安定性が強く、手術などで治療できない、といアイディだけで面白いのに、彼女の日記の中で、様々な試行錯誤が語られてて、これが良い。