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「蒸気でホットアイマスク」みたいなやつ、「物理的に目を覆い隠す消耗品」というシステムによって意地でも絶対に電子画面を見ない十数分を作るというただそれだけのことに80%ぐらいの価値がある
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遠藤周作は狐狸庵という別名で老翁のコスプレをしてふざけた文章を沢山書いていたんだけど、確かどこかで三島由紀夫について「あの人は若くて美しいペルソナしか持たないからムキムキになって最終的に死ぬはめになった、自分はこうして老人のペルソナを持つことで生き延びている」みたいに言っていた。
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読書はまったく役に立たなくても(いからこそ)よいものだ、という立場からしても、「読書を実用物的に捉えて自己啓発本を100冊読んでいるが実はまったく役に立っていない(なのに本人はかなり満足している)人」は読書体験を正当に享受している人に含められるのでは?
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「悲しい」とか「寂しい」みたいな単なる気持ちを、単なる気持ちとしてでなく論理とか批判として表現するとめちゃくちゃにならざるを得ないけど、自分は合理的な人物でくだらない感情には流されないというようなセルフイメージを持ってる人ほどそういうめちゃくちゃな論理に落ち着きやすいと思う。
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「何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの主張である。だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において(…)」
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「肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は虚しい。この優先順位を逆転させることはできない。(「これがニーチェだ」p23)」
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少し前に、爆笑問題の太田光がたしか通り魔殺人についてコメントを求められたときに「自分の生が最もつまらなく空虚だったときの無力感や苦痛」について語り始めて、その頃に見たピカソの絵について抱いた思いを吐露したことがあったと思うんですが、
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ここで話を「殺人の道徳的、倫理的批判」ではなく「自分の生が空虚でつまらなかったという実体験」に持っていく根拠になっているのが上のような「倫理がまったく通用しなくなる場合」についての話だと思います。
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自分の生にまったく価値が感じられないという人に、命の普遍的価値を説くとか、あるいは死刑で罰するというのはまさにそう所作が前提にしているものを欠いたままでしかできない、という話だと思います。タイムリーかどうかは分かりませんが。
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これを「いい話」に帰着させるなら、たとえば「すべての人は一定の手続きを踏めばかならず自分の人生を喜べるような何かを見つけることができ、その何かは殺しや盗みのような非倫理的なものでもなく…」と仮定を足していく必要があるけど、それをやると当初否定された性善説みたいなのに戻ってしまう。
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自殺防止ポスターとかはさらにこの問題が顕著で、「自分の命が大切に感じられない」人に向けて「命の一般的な大切さ」を説くことで自分の命を大切にさせようとするんですよね。そうではなくて逆に「自分の命の大切さ」が「一般的な命の大切さ」の条件なのに。
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多様化が進むほどお金やいいね数のような普遍的な価値の地位が逆に上がってしまう、という話がさらっと書いてあるんですけど、これは賢い人たちにもっとこすってほしい問題だと思う。 twitter.com/fladdict/statu…
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感情と論理が対立しているという空間だと「相手を感情的にさせたら論破」だということになってしまうのですが、昔の匿名掲示板はまさにそういう謎のゲームが支配する空間だったので、そこで覚えた「怒らせたら勝ちのゲーム」を外でそのままやっている人はいるのかなあと思います。 twitter.com/GengoTalk/stat…
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人が物語の「伏線回収」を好きなのは「人生に意味があると感じさせてくれるから」、つまり自分の人生の些事もいつかの時点で大きな意味を持ち得ると感じさせてくれるからだ…という言説を見て、逆に自分が「伏線回収」が「好きじゃない」理由が分かった。
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そういえば、ふだん優生思想に大反対ですという人でも子どもを持たない理由を説明するのに「自分の劣った遺伝子を残したくない」とまんま優生思想な考えを発することがよくあって、自己否定の方向だと言葉や考えの攻撃性が分からなくなるという法則でもあるのかなあと思ってます。
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私は大人なので欲しいものは買えばいいのだが、子どもの頃にクリスマスの前に玩具屋のチラシを集めて自分が何を欲しがっているのかを考えていたあの時間は買うことができない。実はあっちが本体だったということに後から気づいたのだが。