鬱になると小説も読めなくなる。これも言いたかった。もともと1本に1か月くらいかかるのだが、小見出しもなくて内容がわからないし、1ページずつ、じっくり腰を落ち着けて読むしかない。この「腰を落ち着けて」が耐えられない。「またわからなくなった」とか戻ったりするうちに気持ちが離れる。
「死にたい」と思った人が、「自分では勇気がなくて死ねない。そうだ死刑になろう」と考え、「そのために大量殺人を犯そう。それならできる」と、綿密に準備をして大胆に実行する。そんな人はいても稀だろう、という感覚は大事にしたい。死にたいと殺したいは通常、別ものだ。
生きてる気もしないような仕事に耐えるか、国から金をもらって何もしないかの二択しかないって、何かおかしい。やってて生きがいを感じる仕事、有給の活動を与える支援だってするべきだ。本当に欲しいのはそれという人、多いんじゃないか。
冬にうつになるのは、日光を浴びないからセロトニンが不足するせいなので、日光を浴びるのがいいらしい。過眠になるとか。 しかしこれ、よくできた自然の摂理という気もするな。冬場は生き物は休んどけという。 chugoku-np.co.jp/living/article…
「昭和は多様性社会だった」と最近よく聞くが、全然違うだろう。ちょっと違う同級生なんか、いじめまくってたはずで。服が汚い、容姿が変だ、運動ができないとかいって。今のほうがはるかにマシ。その手の問題は少しずつ改善してきたのだから、過去のある時期に突然ユートピアがあるわけない。
集まって飲んで話したり、ライヴに行ったり、そんなことが単に不要不急のもの、規制しやすいものみたいな扱いになってしまったが。そういう楽しみこそ(それだけにかぎらないが)、むしろ生きる目的なんだと、長く生きることより大事なのはそれだと、これから認識を変えていかねば。
これは日本でもできるんじゃないか? |ソウル市の小中高 今年から全学年で給食無償化 jp.yna.co.kr/view/AJP202102…
80年代のマル金マルビだ、ネクラだといった嘲笑文化は全社会的で、本当に加害的だった。00年代のネット・掲示板なんかの中傷書き込み文化も本当に加害的。90年代のサブカルチャーにもそういう部分はあった。けれどもその前後ほど加害的だったか? そこにばかり批判が行くのは歪みを感じる。
AかBかで迷ってまるで進めなくなったら、「どっちの道も困難なんだ」と思ったほうが楽に進める。そんなに迷うくらいなんだから。だいたい「どっちかの道だけ大正解」なんてことは、実際にそんなにない。