風間 暁|Akatsuki kazama(@k6rm6)さんの人気ツイート(リツイート順)

私は14歳の頃には非処女だったが、まだ未熟な肉体で快感を覚えたことなど一度もない。むしろ痛かったし、早く終われと思っていた。あれは「穴として性的に搾取される精神的苦痛」と「自分の存在を求められる精神的快楽」を混同させ、「私は必要とされている」という勘違いを重ねていただけに過ぎない。
とりあえず、「こども家庭庁」の略称は「こども庁」でお願いします。昨年末から言い続けていますが、今まさに家庭の中で苦しい思いをしている子どもたちが見聞きしたときに「頼ってみるか」と思ってもらえるような、そんな印象を持ってもらえるような呼び名であることが重要です。
こども庁はこども個人に目を向けており、庁が子どもの未来に関して責任を取ると期待ができました。しかし、伝統的家族観を重視する保守派に忖度するような庁なら、むしろ創設されないほうが安心です。もちろん家庭支援は必要なことだし大切ですが、それは子ども主体の子ども支援とは≒だと思います。
核家族・共働き・ワンオペがマジョリティの時代に、ジェンダーロールまみれの、というか物理的に現代じゃ実現不可能とも言える伝統的家族観の在り方を重んじるってのは、どう考えても非合理的。それに、そういった思想こそが保護者を追い詰め、虐待を増やすファクターにだってなりうるのだと私は思う。
性行為って相手の内臓に侵入する/されるわけで、いわば個人の境界線を物理的に侵食する行為だと思う。精神的に不安定だと心身ともにその線引きが曖昧になりやすい。若者がアディクション(=自己治療)として境界線内に侵入させている悲しい可能性を、大人が「愛」という抽象概念でボカしてはいけない。
結局、我々当事者は「支援してもらえなくなったらヤバい」から、「支援してもらえそうな態度と言動」を心がける義務感みたいなものが常に付きまとう。つまり、支援者と被支援者の間には見えない権威勾配がある。私たちは支援を人質に取られている感覚だよ。支援者はそれを理解しておく必要があるよね。
子どもは社会で守り育てる存在だと思います。かつての教育改革国民会議では、教育の責任は子ども当人が50%、親25%、教師12.5%、一般社会12.5%であることを自覚させるべきと言われていたようですが、ここからも読み取れるように、国家や社会の責任を子ども当人や家庭に押し付けないでいただきたい。
虐待や被害による精神疾患や各種トラウマは治療が必要だし、それは患者側が医療に繋がってケアを受けるべきではあるけれども、じゃあ費用は親や加害者が出すのかと言ったらそうではないんです。そのあたりを政治でどうにかしようと立ち上がれる議員さんはいませんか?私でよければバックアップします。
サンタクロースは存在するよ。日本にもパラダイス山元さんという公認サンタクロースがいらっしゃる。引くほど厳しすぎる試験を乗り越えて、グリーンランド国際サンタクロース協会に所属し、サンタクロースという職業に就くの。紛れもない事実。大事なことだから二回言うが、サンタクロースは存在する。
本日は、野田聖子大臣に【「こども家庭庁」創設に向けた要望書】、ならびに【「こども家庭庁」の名称を、「こども庁」に戻すことを強く求める緊急要望書】を提出してまいりました。 署名キャンペーンページの進捗投稿から、追って詳細をご報告いたします。
依存症業界にいるとほぼ常識になりつつある「タフラブ」。信じて見守り、待つという愛の形だ。向かう先を正し、厳しく指導することはイネイブリングと呼ばれ、かえって状況を悪化させていくファクターになる。大人たちから子どもたちへの眼差しも、これとあまり変わらない問題を孕んでいるように思う。
私は家庭じゃない場所で居場所を得た。それこそ先のツイートをくださった高知さんや紀子さんたちの愛は、私の心を健やかに育てなおしてくれるから。やっぱり大切なのは家庭そのものではなく、自分の安全を脅かさない他者との関係性(=安心できる居場所)だと思う。親・家庭がそうなら幸運だけど、ね。
「こども庁」への名称変更を求める関連団体・専門家ネットワーク(仮称)を立ち上げました。 賛同してくださる団体、専門家の方がいらっしゃれば、ウェブサイトのお問い合わせフォームよりご連絡ください。よろしくお願いします! kodomo-cho.net
私たちが言いたいのは、名称が嫌だからどうにかしろ、ということではありません。そういった構造を体現するような名付けのプロセスを容認していいのか、それでどうやって虐待を防止していく社会をつくるのか、ということを訴えたいのです。
本日はChildren Firstの勉強会へとお招きいただき、被虐待当事者として、思いの丈を伝えてまいりました。 「子ども家庭庁」という名称について、「子どもファーストなら家庭なぞセカンドでしょう」と熱弁したところ、なんと次回から勉強会の名称をも「子ども庁」に変更してくださるそうです。わーい!
あの日の私が欲していた支援って、家庭からの逃亡支援だったけどな。結局いつも「子どもは親御さんと一緒にいるのが幸せ」的な考えに押しやられるから、誰のことも信じずに自分から逃げたし、トー横的な場所や、同じような若者のグループに行き着いたけども。そういう場所も結局は排除されていくから。
私が経営しているカフェ(@gochamaze_mem )はね、未成年の飲食いつでも無料だよ。離乳食もアレルギー対応もばっちこいだし、フレンチトーストとかプリンとか食べたいものテキトーに頼んでくれていいし、学校行くふりして逃げてきてもいいぜ〜
朝日新聞のインタビューを受けました。有料記事ですが、「こども庁」という名称の意味について話しています。 私はこの問題を、単なる名称をめぐる議論ではなく、子どもへの大人の眼差しそのものを考え直すきっかけだと思っています。 よかったら。 asahi.com/sp/articles/AS…
弁護士ドットコムニュースで塚田さん @tsukada_kenshin に取材していただきました。関心をもってくださり、本当にありがとうございます。 コンビニ菓子売り場に「酔えるグミ」、20歳未満の間で口コミ広がる…依存症専門家が警鐘|弁護士ドットコムニュース | bengo4.com/c_18/n_15500/
正論は暴力になるね。いくら合理的だろうと、筋道を立てていようと。たとえば「死にたい」と言っているときに「悲しむ人がいるからやめなよ」と説教をされるような、そんな痛みがそこには生じる。できることなら死にたい気持ちを尊重されたいし、死にたくなるほどの苦しみに寄り添ってほしいんだよな。
ただコミュニティの規模が違うだけ。どちらも支配者の一存で決まってしまう問題が顕在化したのだと思っています。つまり、このプロセスと結果を受け入れるということは、たとえ子どもが家庭という規模感のコミュニティ内で声を聞き入れてもらえなくとも、「決まったものは仕方ないから我慢しろ」です。
私は「たかが名前」とは思わないな。中身が大切なのは言うまでもないこととして、子どもが見聞きする名前ひとつだって大事なものだと思う。「頼ってみようかどうしようか」「話してみようかどうしようか」子どもが判断する時、名前の印象も材料のひとつになるんじゃないかな。#こども庁でお願いします
親も子どももも、家庭の付属品ではないよね。それぞれが尊重されるべき個人であり、それぞれが別の人間。違う考え方、違う気持ち、違う悩みを抱えているのが当たり前のはず。だからこそ、それぞれが外部に頼れる多数のリソースを持つこと、それが、親も子も生きやすくなる方法のひとつだと思うんだ。
自宅で過ごすことが増え、家庭という閉鎖的なコミュニティでの「ディスタンス」が取りづらい昨今です。 今回は「気付かれたくないときのサイレントSOS」を書きました。 この記事を必要とする人が誰ひとりとしていない状況こそが望みですが、目下の課題として認めています。 covid19-accessibility.com/todokeru/how-t…
今週木曜日、山田太郎参議院議員とTwitterスペースを開きます。 議題はもちろん「こども庁」。その軸として大切になってくる「こども基本法」についても、お話を伺っていけたらと思っています。現役学生や現場の支援者も交えながら、当事者の思いもあらためて伝えさせていただきます。