「こども庁」の名称には、子ども個々人を尊重し、社会で守り育てる思いが込められていると思います。 以下のキャンペーンに賛同をお願いします!「家庭単位じゃなく、子ども個人に目を向けてほしい!再度「こども庁」に名称変更を! #こども庁なら応援しますchng.it/YC56WHs65L @change_jp
やっぱりそういう価値観に基づいた「こども家庭庁」への名称変更じゃないか。これまで家父長制や母性神話がどれだけの保護者を追い詰めてきたか。そして危惧してきた通り、子どもの権利も軽視だ。やっぱり名前は「たかが」じゃないよ。なんらかの思いがあってつけるんだ。
“「子どもは家庭でお母さんが育てるもの」「最近は学校に行かない権利を唱える子どももいるようだが、権利ばかり唱えても(よくない)。」” 途中でiPhone放ってしまった。 「子どもは家庭でお母さんが…」 こども家庭庁を選んだ政治家の意識:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASPDN… #自民 #公明
話が進む中で「やっぱりなかったことにするね」「わかったけど我慢してちょうだい」とでも言わんばかりに、いきなり名称がひっくり返された。私はこの、「なかったことにされた」という点に、強い憤りを覚えています。なぜならこれは、家庭内で行われていた虐待の再現、その構造そのものだからです。→
ずっと意思も存在も尊重されず、大人の都合で振り回されてきました。それでも諦めずに対話を試み続け、受け止めてくださる方が現れ、やっと声が届いた!と希望を持ったんです。それが急転、大人の都合で「やっぱり取るに足らない声でした」。政治がこれだから、虐待がなくならないのではありませんか。
2021年3月9日、私は自民党の勉強会で「当事者の体験を票集めに使わないでほしい」「聞くだけ聞いて何もしないのは経験の搾取だ」と伝えました。その主張を重く受け止め、実際に声を反映させながらここまで行動してきてくださった議員の方々には、今も変わらず感謝しています。しかし、→
署名キャンペーンを立ち上げました。来年の国会で名称が決定されてしまうまで、出来ることをやりたいです。 何卒よろしくお願いいたします。 「家庭単位じゃなく、子ども個人に目を向けてほしい!再度「こども庁」に名称変更を! #こども庁なら応援しますchng.it/SkKjB4xZcm @change_jpより
朝日新聞のインタビューを受けました。有料記事ですが、「こども庁」という名称の意味について話しています。 私はこの問題を、単なる名称をめぐる議論ではなく、子どもへの大人の眼差しそのものを考え直すきっかけだと思っています。 よかったら。 asahi.com/sp/articles/AS…
私は家庭じゃない場所で居場所を得た。それこそ先のツイートをくださった高知さんや紀子さんたちの愛は、私の心を健やかに育てなおしてくれるから。やっぱり大切なのは家庭そのものではなく、自分の安全を脅かさない他者との関係性(=安心できる居場所)だと思う。親・家庭がそうなら幸運だけど、ね。
私は「たかが名前」とは思わないな。中身が大切なのは言うまでもないこととして、子どもが見聞きする名前ひとつだって大事なものだと思う。「頼ってみようかどうしようか」「話してみようかどうしようか」子どもが判断する時、名前の印象も材料のひとつになるんじゃないかな。#こども庁でお願いします
こども庁はこども個人に目を向けており、庁が子どもの未来に関して責任を取ると期待ができました。しかし、伝統的家族観を重視する保守派に忖度するような庁なら、むしろ創設されないほうが安心です。もちろん家庭支援は必要なことだし大切ですが、それは子ども主体の子ども支援とは≒だと思います。
子どもは社会で守り育てる存在だと思います。かつての教育改革国民会議では、教育の責任は子ども当人が50%、親25%、教師12.5%、一般社会12.5%であることを自覚させるべきと言われていたようですが、ここからも読み取れるように、国家や社会の責任を子ども当人や家庭に押し付けないでいただきたい。
私はこの話をさせていただいたサバイバー本人ですが、「こども庁」がひらがなになったことにも、子どもが読めるようにという理由があります。家庭を憎む人は決して少なくないし、子どものいないご家庭だってある。今まさに苦しんでいる子も。「こども庁」は、そんな優しい眼差しで決まった名称でした。 twitter.com/yamadataro43/s…
だからね、家庭へのサポートは必要だよ。それはそれとして絶対になくちゃいけない支援。でも今回は子ども真ん中・子ども第一が理念の庁ということだったから、私が話をさせてもらった会で「こども庁」に決まったの。「伝統的家族観を重視する自民党内保守派」への配慮で、目的と理念がブレてどうする。
伝統的家族観における家庭内って、親も子も追い詰められやすい閉ざされた構造に感じる。だからこそ家庭が開けた場所になり、親も子も外と繋がることは大切だし意味がある。それと同時に、子ども個人が家庭の外で、親にも知られない形で安全な外部機関と繋がることも必要。それをこども庁に期待してた。
親も子どももも、家庭の付属品ではないよね。それぞれが尊重されるべき個人であり、それぞれが別の人間。違う考え方、違う気持ち、違う悩みを抱えているのが当たり前のはず。だからこそ、それぞれが外部に頼れる多数のリソースを持つこと、それが、親も子も生きやすくなる方法のひとつだと思うんだ。
核家族・共働き・ワンオペがマジョリティの時代に、ジェンダーロールまみれの、というか物理的に現代じゃ実現不可能とも言える伝統的家族観の在り方を重んじるってのは、どう考えても非合理的。それに、そういった思想こそが保護者を追い詰め、虐待を増やすファクターにだってなりうるのだと私は思う。
「こども庁」は、講師として呼んでいただいた私ひとりの熱弁によって名称が変わったわけではない。その場にいた議員の皆さんが「子どものため」という第一の目的を共有できたことで、全員一致で賛成、変更になった名称だった。なのに結局、子どもファーストではなく、保守派ファーストになるなんて…。
なぜ子どもに配慮をするのではなく、「伝統的家族観を重視する自民党内保守派」に配慮をするのか、サッパリ意味がわからない。 太郎議員@yamadataro43、はなこ議員@jimihanakoらの積み重ねてきた知見はなかったことになるのか? 子ども新組織の名称「こども家庭庁」に変更  47news.jp/7167950.html
サンタクロースは存在するよ。日本にもパラダイス山元さんという公認サンタクロースがいらっしゃる。引くほど厳しすぎる試験を乗り越えて、グリーンランド国際サンタクロース協会に所属し、サンタクロースという職業に就くの。紛れもない事実。大事なことだから二回言うが、サンタクロースは存在する。
ミニ四駆のボディを塗装していたらご近所さんに「男の子ママは大変ね」と労っていただいたのだけど、恐縮ながら自分の大会用マシンを好きで塗装しているだけなんだよね。ウチの息子たちミニ四駆やってないし。声かけてくれて嬉しいけど、好意に潜む無自覚なジェンダーバイアス、実は悪意より刺さるぜ。
ドネーションのために髪を伸ばしている次男、保育園等で「女の子なの?」と聞かれても平然と無視し、髪は切らないと断言する。「みんながそうやって言ってる間に、僕ちゃんは髪伸ばすだけで人を救っちゃうから。わかってもらえなくてもいいの、ヒーローってそういうもんでしょ!」と。背中がデカいぜ。
性行為って相手の内臓に侵入する/されるわけで、いわば個人の境界線を物理的に侵食する行為だと思う。精神的に不安定だと心身ともにその線引きが曖昧になりやすい。若者がアディクション(=自己治療)として境界線内に侵入させている悲しい可能性を、大人が「愛」という抽象概念でボカしてはいけない。
私は14歳の頃には非処女だったが、まだ未熟な肉体で快感を覚えたことなど一度もない。むしろ痛かったし、早く終われと思っていた。あれは「穴として性的に搾取される精神的苦痛」と「自分の存在を求められる精神的快楽」を混同させ、「私は必要とされている」という勘違いを重ねていただけに過ぎない。
次男から「ママはタトゥー入ってるけど悪い人じゃないからって、先生に言っといた。だからもう半袖で送り迎え来ても平気だよ。夏も長袖じゃ熱中症が怖いでしょ!」と言われました。一応ずっと頑張って隠してきたのですが、その優しさが嬉しいのでどうでもいいです。ありがとう次男。でも長袖で行くよ。