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思わず辞書を引いたが、「尽未来際」は未来永劫という意味らしい。さすが学のある慶喜というべきか。この台詞に出典があるのかわからないが、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』では、1931年(昭和6)、逝去した渋沢の追悼会の弔辞で「子爵(渋沢)の尊霊は尽未来際不朽不滅」とあり。#青天を衝け
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将軍家茂死去。
御台所、和宮親子親王の和歌が
哀しい。
「空蝉の唐織衣何かせむ 綾も錦も君ありてこそ」
#青天を衝け
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昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」。渋沢栄一など旧幕臣が新政府に参加し、改正掛として急進的な改革を進める場面が描かれた。その一方で大久保利通がそれを阻止する悪役として描かれた。主役を目立たせたいのはわかるが、少し説明不足で一方的ではないかとも感じた。
#青天を衝け
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「青天を衝け」第2回。とりあえず一橋慶喜について。弘化4年(1847)9月、松平七郎麿は一橋屋形を相続して徳川姓になった。先代一橋昌丸死去のため喪に服していたが、10月1日、江戸城に登城して将軍家慶に拝謁。一橋相続、10万石拝領を謝す。どう5日にも登城し大奥で家慶と対面。#青天を衝け
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渋沢のことはあまり詳しくないので、今回は慶喜に絞って。慶喜の養親となった将軍家慶の病床に慶喜が籠に入ったカナリアを持参したとき、以前頂戴した旨を述べていたが、これは史実。慶喜が一橋屋形相続のとき、大奥で家慶に拝謁して、ヤマガラ・ウグイスとともに拝領したもの。#青天を衝け
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慶喜が一橋屋形を相続し、御礼言上のため登城して家慶に拝謁するしたのち、慶喜は大奥の奥女中たちに囲まれて質問攻めにあった。曰く「一橋様の御母君は御名を何と仰せられ候や」。嘲笑気味だったので、慶喜は「予は有栖川宮の孫なるぞ」と端然と答えたので、奥女中たちは平伏したという。#青天を衝け
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この逸話は渋沢栄一の肝煎りで編まれた『昔夢会筆記』に載っている。奥女中たちは慶喜が大奥で嫌われた水戸家の出身だったのでからかおうとした。だが、有栖川宮家を通じて、徳川宗家のなかで唯一天皇家の血統を引く慶喜の誇りと苦難が同居するその後を暗示するような逸話ではある。#青天を衝け
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何より有名なのは渋沢の主君、一橋慶喜だ。何せあだ名が「豚一殿」(豚好きの一橋殿)だから。小松帯刀とのやりとりが有名。ちょうどドラマの進行時点の頃、慶喜が何度も豚肉を所望するので、小松は手持ちがなくなり、大名はわがままで困ったものだと嘆き、大久保一蔵に提供を頼んだほど。#青天を衝け
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ドラマであった西郷吉之助が渋沢篤大夫に豚鍋を振る舞ったのは事実。『渋沢栄一伝記資料一』に出てくる。西郷は同僚の吉井幸輔にも「豚汁ができたので冷めないうちに食べに来て下さい」という手紙あり。島津斉彬が藩主として初めてお国入りしたときも豚汁と炒豚の賄い料理が出たほど。#青天を衝け
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折田要蔵は湊川神社の初代宮司。王政復古政変に従軍し、貴重な記録を残している。禁裏御所内の様子を活写している。
#青天を衝け
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小松帯刀は「琉球豚」と書いており、琉球から薩摩に運ばれた豚を肥育したものだろう。当時は冷蔵庫がないから、塩漬けや味噌漬けで保存している。なお、慶喜の豚好きは父斉昭からの薫陶。斉昭は島津斉彬から豚肉を贈られていたから、もともとは薩摩からの豚肉を食べていたものと。#青天を衝け
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慶喜はたった一人で多数の親王・公家を圧倒した。3度めに参内したら、今度は天皇の下賀茂遷幸の話が持ち上がり、紫宸殿には三種の神器や鳳輦も仕度されていた。慶喜は紫宸殿に上がると、天皇の袖を引き留めながら「私が守護し奉りますからには、未だご遷幸の時機ではありませぬ」と諫言。#青天を衝け
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慶喜を家康にたとえたのは木戸孝允。ドラマから3年ほどのち。土佐藩士の土方久元『回天実記』慶応3年3月21日条に「一橋の胆略決して侮るべからず、若し今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し」と述べる。木戸の慶喜への非常な警戒心。#青天を衝け
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本日は明智光秀の命日(新暦)。正確には深夜子の刻を回ってからのような気もします(当時は夜が明けないと日が変わらない)。ともあれ、光秀の最期は悲惨ですね。まず最後の場所は、公家や寺社の伝聞史料では「醍醐の辺」「勧修寺在所」「山階(やましな)」「山科藪中」とさまざま。#麒麟がくる
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このとき慶喜に同行していたのが薩摩藩家老の小松帯刀。その様子を国許に知らせている。「(一橋公は)紫宸殿へイタグラメ(胡座)で有栖川宮を初め長州びいきの暴論公家衆多人数とご対座、一橋公は一人にて舌戦、ついにことごとく説破され、公家衆閉口の由」と慶喜の弁舌が冴え渡った。#青天を衝け
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でも、信長がすでに天正元年(1573)に譲位を申し入れたところ、天皇は「朝家再興のとき」と喜んでいるほど。天皇の生前譲位は中世の常道。信長の申し入れは喜ぶべきことであっても、怒ることではない。今更そんなストーリーでは周回遅れな筋立てで、半世紀は逆行している。結末が怖い。#麒麟がくる
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ダックスフントは古代エジプトにもいたから、室町日本に渡航してきていてもおかしくない。
関ヶ原で対決した島津義弘と福島正則の猛将同士。関ヶ原戦後、義弘は正則に呂宋犬2頭(黒ブチと白ブチ)をプレゼント。正則に徳川幕府との橋渡しを期待か? そんな犬話がてんこ盛りheibonsha.co.jp/book/b509777.h…
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一般公開された松尾大社蔵の信長朱印状。わずか数点しか現存しない双龍形の「天下布武」印。もっと珍しいのは信長が右大臣兼右近衛大将と官職も署名していること。双龍形の朱印は内大臣と右大臣の時期にしか使用していない。なお、その時期には馬蹄形の印判も使用している。
news.yahoo.co.jp/articles/5e1d7…
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2月7日、大河ドラマ「麒麟がくる」最終回が終了した直後の21:00から、光秀・秀満ゆかりの福知山市でこんなイベントが開催されます。私も出演します。視聴者のコメントも募集しているそうです。#麒麟がくる
tourism.travelnews.co.jp/kansai/2021020…
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番組出演のお知らせ。1月20日(水)午後8時からNHKBSプレミアム「英雄たちの選択」に出演します。テーマは「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」。細川藤孝の知られざる一面にも触れます。nhk.jp/p/heroes/ts/2Q…
#細川藤孝 #麒麟がくる
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大河「秀吉」。沢口靖子演じる北政所。
名前の読み方もここ半世紀で二転三転。
ねね→おね→ねね
昔は「ねね」、大河「秀吉」の前後は「おね」。
そして今はまた先祖返りして「ねね」。
近年、堀新さんが「ねね」だと実証した。
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秀吉の最後の城、京都新城の石垣や堀跡が仙洞御所内から発見されて話題になっている。秀吉が造営したそのひとつ前の城は木幡山伏見城だが、その間に秀吉がもうひとつ居館を洛中に造営していることはあまり知られていないと思われる。しかも、島津氏が関わっている可能性も。
kyoto-np.co.jp/articles/-/243…
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話題になっているアマビエ。どなたかも紹介してたけど、徳川家康の家来、松平家忠の『家忠日記』にも似たような絵が。天正9年(1581)4月条。家忠は人魚だという。口が少し違うけど、ウロコとヒレは似ている。家忠は日記の余白にいろんなイラスト描いていることでも知られる。
#アマビエ