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昨日の大河ドラマ、いよいよ築山殿が武田に内通したとする嫌疑の伏線が敷かれた。三河一向一揆の拠点本證寺に出入りしていた武田方の巫女千代を自ら招き寄せるという趣向。これは根拠のないストーリーではない。『岡崎東泉記』という史料に甲州から多くの「口寄せ巫女」が来たとある。#どうする家康
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昨日の大河ドラマ、一向宗寺院の本證寺が登場、門徒衆や大勢の群衆で賑わいを見せていた。三河一向一揆の実相がかなり具体的に紹介されたのは大河ドラマ史上初めてではなかったか。
舞台は本證寺。訪れたことあるので写真紹介。塀と水堀が現存して、いかにも城郭的な構え。空堀も残る。#どうする家康
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一般公開された松尾大社蔵の信長朱印状。わずか数点しか現存しない双龍形の「天下布武」印。もっと珍しいのは信長が右大臣兼右近衛大将と官職も署名していること。双龍形の朱印は内大臣と右大臣の時期にしか使用していない。なお、その時期には馬蹄形の印判も使用している。
news.yahoo.co.jp/articles/5e1d7…
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織田信長の新出文書が発見された。
播磨三木城攻めのいきさつに関わるもの。信長が別所長治を「忠節の者」と評価して、秀吉に善処を促している。
所蔵する泰巌歴史美術館での公開ではなく、藤枝まで観に行かないとならない。
msn.com/ja-jp/news/nat…
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近年、本能寺の変における明智方の動向を示す史料として、加賀藩兵学者の関屋政春が著した『乙夜之書物』が注目された。20日の新聞記事によると、同書にはほかにも斎藤道三と義龍の父子の長良川の戦いもあるとか。そのなかに義龍が「道三を討たずに生け捕りにせよ」と命じていたという一節あり。
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昨日の大河ドラマは富士の裾野を舞台にして、曾我兄弟の仇討ちが描かれた。この故事が遠く離れた薩摩で「曾我どんの傘焼き」という民俗行事として数百年にわたり生き続けている。雨中で兄弟が傘に火を付けて仇の工藤祐経を探したという逸話に基づく。夜になると、傘に火が付けられる。#鎌倉殿の13人
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昨夜の大河「鎌倉殿の13人」で、義経の同母兄、義円が叔父源行家とともに、墨俣合戦で平家勢と戦って戦死する場面がありました。数年前、関ヶ原の取材のとき、古戦場と義円の供養墓などを撮影していました。なお、義円が鎌倉に出仕して頼朝に従ったことは確認できないとか。#鎌倉殿の13人
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少し時期遅れの話題。今年の大河ドラマで注目を浴びた一橋慶喜の側近、平岡円四郎。
彼の家格や知行高をよく知らなかった。譜代幕臣の人事異動録『柳営補任』にも、実名が「方中」というくらいしか情報がなかった。そしたら、たまたま譜代大名の某史料をめくっていたら詳しく載っていた。#青天を衝け
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今夜の大河ドラマ「青天を衝け」。開拓使官有物払下げ事件と明治14年政変が描かれた。近年の研究では五代は払い下げの利益を得ておらず、冤罪という説が有力。事件の背景には大隈重信と結ぶ三菱や福沢諭吉などの世論工作があったとも。この事件、かつて新聞連載で書いた記事を添付。#青天を衝け
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坂本龍馬が大政奉還の功労者というのは納得いかない。龍馬が慶応3年(1867)10月9日に上京したときには、薩土の間で大政奉還建白の合意がすでに成立していた。後藤象二郎の提案に対し、9月27日に大久保一蔵が、小松帯刀が薩摩藩を代表して建白書提出を支持している。龍馬が上京する前に決着していた。
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昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」榎本軍幹部たちの処遇。横道にそれるが、新政府が榎本武揚たちをどのように処分するか、しばらくは結論が出ず、彼らは留置されたままだった。それが急転するのは、明治4年11月、岩倉使節団の出発の前である。なぜか。#青天を衝け
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昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」。渋沢栄一など旧幕臣が新政府に参加し、改正掛として急進的な改革を進める場面が描かれた。その一方で大久保利通がそれを阻止する悪役として描かれた。主役を目立たせたいのはわかるが、少し説明不足で一方的ではないかとも感じた。
#青天を衝け
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昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」静寛院宮。ドラマでは天璋院と静寛院宮という2人の女性が協力して徳川家存続に動き出す。事実、2人の手紙作戦は功を奏した。天璋院は前薩摩藩主島津斉彬の養女。静寛院宮は孝明天皇の妹。実家との縁や新旧の将軍御台所の地位を最大限に活用したのである。#青天を衝け
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慶喜はたとえ京都で勝利しても、薩摩までは攻めていけず、戦乱が長期化することになり、外国の干渉を招きかねないから、戦争で決着をつけられない。だから、政権返上するしかないという理屈でしょう。慶喜は決して楽観せず、冷徹な情勢分析をしたうえでの決断だったことがわかります。#青天を衝け
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」大政奉還編。いよいよ将軍慶喜の大政奉還でした。慶喜がなぜ政権返上を決断したのか。慶喜は幕臣たちを前に政権返上の理由を語っていましたが、実際の朝廷への上表文とほぼ同じでわかりやすくしたものです。草なぎ氏も台詞覚えが大変だったのではと推察。#青天を衝け
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大河ドラマ「青天を衝け」。この間、渋沢栄一と一橋慶喜を同時並行的に描く手法が奏功。何より史実寄りの脚本がいい。渋沢の自伝「雨夜譚」が十分活かされている。下手な創作するよりも、史実の見せ方の工夫だけで十分面白いのは、数年前の「真田丸」もそうだったが、今回も実証された。#青天を衝け
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将軍家茂死去。
御台所、和宮親子親王の和歌が
哀しい。
「空蝉の唐織衣何かせむ 綾も錦も君ありてこそ」
#青天を衝け
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昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」。天狗党の悲劇が描かれたが、ここでは側面史を少しばかり。薩摩藩家老の小松帯刀は中村半次郎(のち桐野利秋)を天狗党探索に向かわせた。中村の動向と報告が小松帯刀書簡と、天狗党の上京阻止のため出動した会津藩の史料『会津藩庁記録』に残る。#青天を衝け
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」。慶喜と薩摩藩の微妙な関係は駆け足と省略のため、詳しく描かれませんでした。また薩摩藩の代表が西郷吉之助になっていましたが、代表で総大将はあくまで家老の小松帯刀です。残念ながら登場しませんでした。長州藩兵は山崎、天龍寺、伏見から迫ります。#青天を衝け
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慶喜の様子を見た小松帯刀は「その節の一橋公のお振る舞いは威儀堂々、誠に無双の豪傑と見えました」と感嘆している。「無双の豪傑」とは最大級の賛辞だろう。しかも、薩摩藩の大立て者、小松帯刀の言葉だから重い。慶喜の宮廷政治家としての才能に、以降、薩摩藩は苦しめられる。#青天を衝け
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慶喜はたった一人で多数の親王・公家を圧倒した。3度めに参内したら、今度は天皇の下賀茂遷幸の話が持ち上がり、紫宸殿には三種の神器や鳳輦も仕度されていた。慶喜は紫宸殿に上がると、天皇の袖を引き留めながら「私が守護し奉りますからには、未だご遷幸の時機ではありませぬ」と諫言。#青天を衝け
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このとき慶喜に同行していたのが薩摩藩家老の小松帯刀。その様子を国許に知らせている。「(一橋公は)紫宸殿へイタグラメ(胡座)で有栖川宮を初め長州びいきの暴論公家衆多人数とご対座、一橋公は一人にて舌戦、ついにことごとく説破され、公家衆閉口の由」と慶喜の弁舌が冴え渡った。#青天を衝け