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薩摩島津氏の「捨てがまり」が話題になっている。この言葉は日本国語大辞典にも立項されている。
「戦場で、軍勢が退却する時、一部の兵を伏兵として残しておき、近づいて来る敵兵を遠矢や鉄砲で狙撃させるもの」という意味。
この辞典は出典も記されているが、軍記物は『甲陽軍鑑』だけである。
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今夜の大河「青天を衝け」第3回。このドラマは脚本と時代考証がかなりしっかりしている気がする。また渋沢栄一と徳川慶喜のストーリーを並列的に描いているのも効果的で、いつか両者が交わるのだろうと予感させる。今回、平岡円四郎が本格的に登場した。渋沢と慶喜をつなぐキーパーソン。#青天を衝け
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昨日の大河ドラマ、一向宗寺院の本證寺が登場、門徒衆や大勢の群衆で賑わいを見せていた。三河一向一揆の実相がかなり具体的に紹介されたのは大河ドラマ史上初めてではなかったか。
舞台は本證寺。訪れたことあるので写真紹介。塀と水堀が現存して、いかにも城郭的な構え。空堀も残る。#どうする家康
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」。薩摩藩の豚肉料理が出ました。当時は仏教の殺生禁断の教えが浸透していたので肉食は一般に敬遠されていたが、薩摩藩は例外で、よく豚肉が食べられた。江戸の上屋敷(芝藩邸)跡からは発掘調査で大量の豚の骨が出土しているほど。
#青天を衝け
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昨日の大河ドラマ、いよいよ築山殿が武田に内通したとする嫌疑の伏線が敷かれた。三河一向一揆の拠点本證寺に出入りしていた武田方の巫女千代を自ら招き寄せるという趣向。これは根拠のないストーリーではない。『岡崎東泉記』という史料に甲州から多くの「口寄せ巫女」が来たとある。#どうする家康
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昨日の大河ドラマは富士の裾野を舞台にして、曾我兄弟の仇討ちが描かれた。この故事が遠く離れた薩摩で「曾我どんの傘焼き」という民俗行事として数百年にわたり生き続けている。雨中で兄弟が傘に火を付けて仇の工藤祐経を探したという逸話に基づく。夜になると、傘に火が付けられる。#鎌倉殿の13人
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室町日本にダックスフントがいた。
京都相国寺の塔頭鹿苑院にあった蔭凉軒の公用日記『 蔭凉軒日録』によれば、長享2年(1488)、管領細川政元が連れてきた犬は「天竺犬」と呼ばれて変わっていた。名前から明らかに舶来の犬。「黒毛、嘴細、尾多、足短、腹大」だったと。該当するのはダックスフント。
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大河ドラマ「青天を衝け」。この間、渋沢栄一と一橋慶喜を同時並行的に描く手法が奏功。何より史実寄りの脚本がいい。渋沢の自伝「雨夜譚」が十分活かされている。下手な創作するよりも、史実の見せ方の工夫だけで十分面白いのは、数年前の「真田丸」もそうだったが、今回も実証された。#青天を衝け
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坂本龍馬が大政奉還の功労者というのは納得いかない。龍馬が慶応3年(1867)10月9日に上京したときには、薩土の間で大政奉還建白の合意がすでに成立していた。後藤象二郎の提案に対し、9月27日に大久保一蔵が、小松帯刀が薩摩藩を代表して建白書提出を支持している。龍馬が上京する前に決着していた。
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美賀君の追加。ドラマで慶喜が徳信院と一緒に謡いをしていたところに美賀君が乱入してくる場面があったが、これは実話のようです。松平慶永の生母青松院によれば、「(謡いの)その座にて(美賀君が)ただちに御声を発し、刑部卿様(慶喜)をおこづき、御立腹あらせられし」とのこと。#青天を衝け
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補足。井伊直弼は大老であり、事実上、当時の日本政府首班だったため、桜田門外の変は世界のニュースとなって流れた。ニューヨークタイムズにも記事が掲載されたが、幕府がその死を隠して負傷しただけだとリリースしたため、記事は暗殺計画は未遂に終わったと誤報する結果になった。#青天を衝け
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大河ドラマ「青天を衝け」。このドラマでは尾高兄弟、平岡円四郎、大橋訥庵、老中安藤信正、坂下門外の変など、これまでの大河ドラマであまり光が当たらなかった人物や事件を取り上げていて、別の視角から幕末維新史の流れを理解することができる。なかなか面白いドラマになりそうな予感。#青天を衝け
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今夜の大河ドラマ「青天を衝け」。開拓使官有物払下げ事件と明治14年政変が描かれた。近年の研究では五代は払い下げの利益を得ておらず、冤罪という説が有力。事件の背景には大隈重信と結ぶ三菱や福沢諭吉などの世論工作があったとも。この事件、かつて新聞連載で書いた記事を添付。#青天を衝け
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今夜の「麒麟」。信長が本格登場で、帰蝶に怪物の話を聞かせる場面。これは信長伝記の『信長公記』首巻にあり。尾張国春日井郡比良の東にあまが池があり、地元では「蛇池(じゃいけ)」と呼ばれていた。ある年正月中旬、安食村の又左衛門(ドラマの通り)が目撃した。写真は現在の蛇池。 #麒麟がくる
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昨夜の「麒麟」。山門焼き討ちで光秀がその軍事行動の先頭に立ったことです。従来の大河では、この場面で常識的な文化人である光秀が粗暴な信長に対して、叡山は国家鎮護の霊峰だからという理由で諫言し、怒った信長が光秀を折檻するという、ステレオタイプなパターンばかりでした。#麒麟がくる
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先日、暗殺された平岡円四郎には2人の息子がいたんだね。『雨夜譚会談話筆記』にある昭和になってからの渋沢の回想によれば、平岡には息子が2人あり、総領は道具屋、次男は信州で裁判官だったとか。明治20年頃、本所の何とかという法華宗の寺で平岡の法事をしたときに会ったようだ。#青天を衝け
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「国盗り物語」の頃からこの場面には不満で、焼き討ち後、光秀への恩賞が一番だった史実と整合しないと違和感がありました。ところが、今回は戦国系の大河ドラマ史上で画期的な描き方だったと思います。叡山焼き打ちの先兵に立つ修羅のごとき光秀――それこそが光秀の実像に近いと考えます。#麒麟がくる
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」大政奉還編。いよいよ将軍慶喜の大政奉還でした。慶喜がなぜ政権返上を決断したのか。慶喜は幕臣たちを前に政権返上の理由を語っていましたが、実際の朝廷への上表文とほぼ同じでわかりやすくしたものです。草なぎ氏も台詞覚えが大変だったのではと推察。#青天を衝け
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今夜の大河「青天を衝け」。高島秋帆が罪を得て岡部藩に預けられたのが弘化3年(1846)。松平七郎麿が一橋を相続したのが翌4年(1847)。渋沢少年が7歳から8歳のとき。史実をうまく取り入れて、しかも整合性が高かった。よきかな。#青天を衝け
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本日の大河「青天を衝け」第9回。謹慎している慶喜に、平岡円四郎が甲府勤番に異動する旨を知らせにきた場面。甲府勤番とは要するに甲府勝手小普請、いわゆる小普請組だから、左遷中の左遷。これも安政の大獄の余波だろう。慶喜が円四郎に大首するなとか、体を湿らせるなと忠告した件。#青天を衝け
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平山優さんも指摘しているが、「忍び」用語には地域性があるという。「かまり」はどうも東国の言葉のようである。数万語の薩摩弁を集成した方言辞典『鹿児島方言大辞典』があるが、これにも「かまり」は立項されていない。やはり、鹿児島ではなじみのない言葉だったか。
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江戸後期の軍学者徳田邕興が『島津家御旧制軍法巻鈔』で戦国島津氏の軍法を詳細に紹介、分析している。そのなかに「釣り野伏」の解説はあるが、「捨てがまり」は出てこない。
現状、島津氏関係の史料で「捨てがまり」は見つけられないでいる。現時点ではその実在は確認できないというのが一応の結論。
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昨日の大河ドラマ「青天を衝け」。暗殺された平岡円四郎の変わり果てた姿と対面した慶喜が珍しく感情を露わにして、その遺骸に語りかけた言葉がよく聞き取れなかったが、「円四郎よ、尽未来際と申したではないか」と言ってるらしい。「尽未来際」(じんみらいさい)とは耳慣れぬ言葉。
#青天を衝け