→ 豊富な写真や資料と、綿密な調査に基づいて書かれた、10.10空襲の実態。 著者は、後に沖縄県知事も務める大田昌秀氏です。 朝ドラ「ちむどんどん」で、母・優子が被災したのもこの空襲でした。 この空襲について、もっと多くの方に知っていただきたいと思います。
沖縄の民具の中でも、ユニークな物の一つ「サギジョーキ」。 まだ冷蔵庫など無かった頃、食べ物を保管しておくために使われた籠です。 蒸した芋や茹でた豚肉などを入れ、台所の軒から吊るして、ネズミや蟻から食べ物を守りました。続く→
→ 鹿山隊は玉音放送後も投降せず、戦争終結を知らせた人や朝鮮人などを妻や子どもまで含め斬殺し、家ごと火をつけ焼きました。 また教員と偽り島に住み、住民を監視・摘発した日本軍諜報員の存在も明らかに。 軍は自分達のスパイに住民を監視させ、一方で住民を敵のスパイと疑い殺していたのです。→
→ 後に捕虜となった鹿山隊長と、久米島出身の兵士らが収容所で出会い、故郷での虐殺を知った人々が、怒りのあまり隊長を殴ったという証言も。 巻末には、沖縄戦で亡くなった久米島住民1,100余名の氏名が。 「国家・軍隊」に身を焼かれ未来を奪われた人々が、無言で何かを語りかけてくるようです。
朝ドラちむどんどん、次回から時代は1971年に。 沖縄が米軍に統治されていたアメリカ世(ゆー)も、残りわずかです。 ここでドラマでは描かれなかった、当時の沖縄での出来事を、番外編としてご紹介します。 その1は、宮森小学校米軍機墜落事故。続く→ #ちむどんどん #ちむどん #ちむどんどんまめ知識
→ 生々しい体験談から浮かび上がるのは、米軍という組織が沖縄の人々を見下し、粗末に扱ってきた現実です。 今も無くならない米兵の犯罪や基地でのコロナ対策の甘さなどの底流には、「沖縄はアメリカの戦利品」「自分達が統治する側」といった占領者意識がある、と思わざるをえません。
→ 沖縄県外に住み、沖縄に基地負担を強いている私たちは、白人の立場。 あなたなら、どれを選びますか。 ・黒人の横に座る ・嫌がらせをする ・見て見ぬフリをする もちろん見て見ぬフリは、黒人にとって嫌がらせと変わりません。→
今日の #ちむどんどん より、自身の沖縄戦体験を語る、嘉手刈源次氏。 短いシーンながら、大きな存在感を示しました。 ガマ(洞窟)で遺骨収集を行う氏ですが、実際に今も沖縄で遺骨を掘り続ける人がいるのをご存じでしょうか? その方は…続く→ #ちむどん #ちむどんどんまめ知識
「戦争マラリア」をご存知ですか? 沖縄戦時、八重山・宮古諸島の住民がマラリアの発生する僻地へ強制的に疎開させられ、八重山だけで3,600名以上がマラリヤで死亡。 この地域での米軍の攻撃による被害を上回る犠牲者を出したのです。 比嘉慂の漫画集「カジムヌガタイ」にも、この話が。続く→
今日の #ちむどんどん で、鶴見の県人会長・平良三郎の気になる発言。 “俺の親父は…俺には沖縄の言葉を一切使わせず…” 沖縄出身者のリーダーとして鶴見で仲間を助けながら、息子に沖縄の言葉を禁じた父。 そこにはどんな想いがあったのでしょうか?…続く→ #ちむどん #ちむどんどんまめ知識
以前ご紹介した「基地で働く」という本の中で、沖縄の米軍基地に核兵器があった、という証言がありました。 それをハッキリと裏付け、その実像に迫るのが本書「沖縄と核」。 2017年にNHKが放映した同名のスクープドキュメント番組に、未放送の情報も加えて書籍化したものです。続く→
→ 頻発する墜落事故や暴発。 危険な猛毒を、何も知らされず素手で扱った事。 厳戒体制の「核」収容施設。 沖縄での軍生活の楽しさをPRするビデオの撮影。 バーの従業員として接した、米兵や将校達の本音。 ベトナム戦の訓練でゲリラ役をさせられたり、CIAの諜報活動で共産国の放送を傍受したり。→
1895年から1945年まで、日本の植民地支配下にあった台湾。 その50年間、多くの日本人が台湾へ渡った中に、沖縄の人々もいました。 こちら「沖縄の植民地的近代」は、彼ら沖縄系台湾移民の目を通し、日本と台湾・沖縄~八重山の知られざる近代史を捉えた力作。続く→
大変ユニークな本が入荷しました。 こちら「めんそーれ!化学」は、沖縄の夜間中学で化学を教える著者が、その授業の様子を綴った本。 生徒は沖縄戦で学校に通えなかったおばあさん・おじいさん達。 彼らは化学の授業中、先生の話から戦後の暮らしを思い出し、語り始めるのです。続く→
終わっていないわけ…ウチの戦争は! 今日の #ちむどんどん は、優子のセリフが全てでしょう。 沖縄には、戦争の体験を誰にも語れず、心に秘めてきた方々がおられます。 それはあまりにも悲惨だったり、罪の意識に苛まれていたり、心の傷が大きすぎるから…続く→ #ちむどん #ちむどんどんまめ知識
→ 戦前・戦後にかけ、本土へ移り住んだ沖縄の人々は、様々な差別にあいました。 就職や銀行の融資を断られる、下宿探しや飲食店でも疎まれる、言葉使いを馬鹿にされたり結婚に反対される。 せめて子どもが差別されないように、苗字を日本風に変えたり標準語を徹底させた親もいたのです。→