安倍総理に安倍総理が表敬訪問
ここでの話の中心は、昭和22年の段階では、関係者以外知らなかった「卑怯な日本の騙し討ち」の裏側、米側が日本の攻撃を、その日時まで把握していたということを、米国人弁護人(ブレイクニー少佐)が明らかにしたために、判事や検事が驚きのあまり絶句した、ということ。米国人弁護人は、法廷に呼ん… twitter.com/i/web/status/1…
巣鴨プリズンに新設された処刑台について、米軍に徴用された日本人の具体的証言があった。雑誌『刑政』昭和33年7月号より(全員出所し巣鴨プリズンが閉鎖された時の号で巣鴨プリズンが特集されている)。… twitter.com/i/web/status/1…
映画『大東亜戦争と国際裁判』は関係者の証言が忠実に再現されているところがいくつもあって、そういう部分も含めてよくできた映画だと思う。赤いドレスを纏ったインドの夫人が入場して大川周明が叫ぶシーンも、林逸郎弁護人の証言通り再現されていた。… twitter.com/i/web/status/1…
人々の記憶は20年もすれば消えると、今は亡きひなたさんがツイートしていて、なるほどと思ったことがある。「戦犯救済とその名誉回復」をもたらした、あれだけ盛り上がった国民運動の記憶が今に伝わっていないからだ。むしろ、逆の“記憶”で上書きされてしまっている。… twitter.com/i/web/status/1…
東條の、陛下に御迷惑はかけぬという覚悟については、重光葵の「巣鴨日記」にも何度か出てくる。 昭和22年1月8日… twitter.com/i/web/status/1…
巣鴨プリズンを仮出所した直後の重光葵。東京裁判で昭和23年11月12日に有罪・禁固7年の判決を受けた重光は、昭和21年4月29日の逮捕起訴から4年7ヵ月の服役の後、昭和25年11月21日に仮出所。講和条約発効後、恩赦により刑の執行が終了。重光はソ連の強引な横やりで戦犯として起訴されたが、その有罪判決… twitter.com/i/web/status/1…
ペマ・ギャルポ氏は暗殺された安倍首相について次のように語っている。 『中国が仕掛ける東アジア大戦争』「第一章 安倍晋三元首相を偲ぶ」より… twitter.com/i/web/status/1…
巣鴨プリズン、昭和27年の七夕。 サンフランシスコ講和条約が発効して2カ月以上が経過したが、収監者たちの釈放の期待は裏切られ、大勢残されたまま。 以下は彼らがその日に書いた短冊。 もう七年 出さねば勝手に出ていくぞ 星見ればシャクにさわるぞアメ公 早く帰して下さい… twitter.com/i/web/status/1…
先日の講演「日本の教育を取り戻せ!-復刻版教科書を検証する」での高須院長からのメッセージです。高須先生は『高等科修身 男子用』の解説を書かれています。 国を守るために一番重要なのは、子供たちに対する教育です。… twitter.com/i/web/status/1…
荒木貞夫は東京裁判の起訴状を天長節に渡されたことに対して「いやなことをするものだ」と書いている。山下将軍や本間中将の場合もそうだが、あの“戦犯”裁判では、意味のある日時に合わせていることがやたら目につく。東條が大森から巣鴨に移ったのは昭和20年12月8日、入獄手続きの指紋押捺時刻が… twitter.com/i/web/status/1…
この東條の覚悟は、他の被告も同じ考えであることを、重光葵は「巣鴨日記」に書いている。… twitter.com/i/web/status/1…
今から10年前の秋葉原。私も現場にいましたが、安倍さんに対する声援がものすごかった。 民主党政権下の2012年9月、秋葉原で自民党総裁選・安倍晋三応援演説があり、その後、安倍さんが街宣車を降り、集まった観衆と握手して回った。
広島の原爆の碑を見たパール博士の言葉は、今の日本人に重くのしかかる。… twitter.com/i/web/status/1…
この時の法廷の記録によると、ブラットン大佐が日本大使館宛の、暗号簿と文書の破棄命令を傍受したのが12月3日で、日本大使館では文書の焼却が見られた。大佐はそのことを諜報部長マイルズ将軍と作戦計画部長ジェロウ将軍に報告、おそらく開戦を意味する、ということで意見が一致した。… twitter.com/i/web/status/1…
漫画家のさちみりほ先生が叔父さんの戦争体験を、靖国神社みたままつりの揮毫雪洞に描いていました。7コマ漫画になっていました。 故田島美弘(旧姓島田)叔父さん 南京陥落二日後に入城。その後楓32師団へ 「南京の町はフツーで皆露店で商売しとったでー」
昭和20年5月11日、空母バンカーヒルに2機の特攻機が突入。 ケネディ大統領の甥、マクスウェル・テーラー・ケネディは日米双方を丹念に調査し、1冊の本にまとめている。… twitter.com/i/web/status/1…
昭和27年に訪日したパール博士が口にした日本批判は、そのまま今の日本批判になっているものばかりだ。… twitter.com/i/web/status/1…
戦時中の小6の理科の教科書。 ハンダ付けの前にハンダをつくったり、銅メッキをしたり。
橋本欣五郎担当の林逸郎弁護人が、東京裁判前の弁護人選定段階のことを書いているが、こういう話は知らなかった。またそこでの外務省の行動を批判している(『経済往来』昭和29年3月号)。… twitter.com/i/web/status/1…
「母の手仕事-日々の暮らしの記録」を見る。 昭和30年代まではどこの家庭でも普通に見られた家事を映像化した作品。 今なら複数の専門職の人間がやる仕事を、一人のおばあさんがこなす。 昔の専業主婦は超人だったのではないかと思える。
東京裁判でA級被告を全力で弁護した米国人弁護人たち。 昭和21年6月に代表を辞任、帰米した東條担当のコールマン大佐がいるのでそれより前の写真だと思う。 人物を特定しようとしているが、あと9人わからない。特定した人物も間違いがあるかもしれない。… twitter.com/i/web/status/1…
重光葵は「巣鴨日記」の中で、巣鴨プリズンのことを狂宿、狂人宿と呼んでいる。日本人に対する扱いがあまりにも非人道的だったからだ。… twitter.com/i/web/status/1…
大島浩(駐独大使)と東條英機の関係が興味深い。二人は同じ麹町区の城北中学校に在学、明治32年9月、共に市谷台の東京陸軍地方幼年学校に入校、中尉の頃同じく士官学校区隊長を務め、共に陸軍大学校に入校し、卒業後大尉のとき一緒にドイツで暮らしている。… twitter.com/i/web/status/1…
重光葵の『巣鴨日記』を読むとA級被告の間の立場の相違や対立が出てくるが、彼らの間で完全に一致している点が一つあった。重光はこう書いている。「今残っている二十五名のA級戦犯者の裁判は、極刑の言い渡しに近づきつつある。彼等の心境は人々によって異るものがあるのは勿論であるが、如何なるこ… twitter.com/i/web/status/1…