しかし、当時の新聞や文化人の論調を見ていると、弱腰の政府に不満を覚える国民と、それに煽られるまたは煽るメディアによって不満の空気が醸成されていき、一定歓迎する空気の中で戦争に突っ走っていたという側面があったのではないかと考えるようになりました。すると反省の仕方がまるで変わります。
例えば「朝、目覚めると戦争が始まっていました」という本に戦争開始翌日の言論人たちのコメントが載っています。例えばこのようなものです。 「ものすごく開放感がありました。パーッと天地が開けたほどの開放感でした」吉本隆明(思想家) note.com/daitamesue/n/n…
もし戦争が軍部と政府の暴走ではなく、市民とメディアと政府の間で空気が醸成され突入されたいったものだとしたら、実際の罪は政府側にだけあるのではなく国民全体にあることにあります。国民は戦争にひきづられた犠牲者ではなく戦争に加担者でもあることになります。
つまり日本が暴走するのは一部の権力者が強引に引っ張るのではなく「国民が空気に染まった時」だということになります。そうであったならどうすればあのような政府の暴走を起こさないかという反省だけではなく、自分達全員が抱えている空気に流される性質をもっと直視すべきではないかと思います。
私たちは政府に言論を統制されたし世論が望んだのだというメディア、我々は政府に抑圧されメディアに踊らされたのだという国民、我々はメディアに煽られ国民が強く望んだのだという政府。そしてそこに当事者はいないというのが日本の特徴ではないかと思います。
私たちは真に何を反省すべきなのかというのは常に考え続けるべきだと思います。その点において戦後に作られた軍部主導という物語から、日比谷焼打事件による大衆運動の力と、5/15の同情からくる大衆の罪の軽減への懇願書、あたりは大変重要だったと思います。
大衆世論によって何度も倒される内閣。次第に世論に呼応するようにポピュリズム的になる内閣。次第に好戦的になる大衆、軍部も台頭し、誰も中心にいないがなぜか戦争に向かっていく国家。驚くほど最初から日本の国民は政府嫌いで、何かにつけては大衆が内閣辞職に追い込んでいるのは今と変わりません。
あとこちらの陸海の予算獲得争いのために、危険を煽ったという部分も大変興味深いです。 amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9…
こちらも日本の事例ではないですが。ドイツは日本よりも正面から向き合えているという印象があります。 amazon.co.jp/%E5%BD%BC%E3%8…
もしもメディアが世論を作って国民はそれに騙されたのなら、国民は自分達の考えをメディアによってコントロールされている無力な存在だという前提になってしまいます。しかし、自分の頭で考えなかった責任はそれで逃れられるのでしょうか。
今起きている出来事は他ならぬ自分達の選択の結果であるということを認めなかったり、自分達はメディアや政府に翻弄される弱い存在だということにしている限り、空気に包まれて暴走することは止められないのだと思います。
大変深刻です。コロナ対策の影響として考えに入れるべきです。亡くなっているのは20代の方が最多です。 コロナの影響で自殺者約8千人増、20代女性が最多 東京大などが試算 #ldnews news.livedoor.com/article/detail…
私たちの社会は病気による死や事故による死は警戒し責任を感じますが、経済的に苦しい人を死に追いやることに関しては冷淡な時があります。経済的困窮は自己責任ではなく社会の構造問題も大きく影響しており、特にこの数年、一部の人を経済的に追い詰めてでもコロナ対策を優先させました。
自死は本人の選択のように見えているだけで、社会が追い込んだ側面があることを我々は認識するべきだと思います。コロナ対策とは誰の命を優先し誰の命を犠牲にすることを選ぶのか、ということです。私たちは気づかないふりをするのではなくそのことをきちんと認識して選択すべきだと思います。
私はメディアはコロナ死と、コロナ対策死の両方を併記して放送するべきだと思います。
多様性を認めるということは同じものを見ても同じ結論に至るわけではないということをよく理解することだと思います。ですから意見が違う相手に対しよく勉強してくださいとアドバイスしても、相手が勉強するほど意見が合わなくなっていくことが起こります。
とにかくこれは読んでいただきたいです。私のようにこの領域が好きで本を読んでいた方は衝撃を受けると思います。反省。まとめていただいた方に感謝します。 心理学・行動経済学等の著名な研究論文が次々に追試失敗【心理学】|手記千号 #note note.com/s1000s/n/na0db…
私は社会は選ぶということに自覚的であるべきだと思っています。選ぶ際に重要なのは ・全ては有限であること ・何かを選べば必ず何かは犠牲になること の2点です。リソースは限定的だから選ばなければならない。そして選ぶということは選ばれなかった方を犠牲にすることであるということです。
その人が本当に現状を変えようとしているかは ①具体的にどうするか ②自分ならどうするか ③何をやらないか の三つの質問をしてはぐらかすかどうかで浮き上がります。理想的で、自分以外の誰かがやることで、やることとやらないことを選ばなければ、どのようにも言えるからです。
私は医療に詳しくないので間違いを指摘していただければと思いますが、日本の医療は変化の時を迎えているのだと思います。アメリカに住んだことがあると日本の医療のアクセスのしやすさ、安さ、質の高さを改めて認識します。しかし、同時に一旦モラルが崩壊すると大きな歪みが生まれます。
私は、私たちは幸せなときに幸せだということをもっと表現した方がいいのではないかと思っています。私たちの社会は他者の気持ちを慮ることを重視しています。どこかに辛い人や苦しんでいる人がいると自分だけが幸せそうにしていることに後ろめたい気持ちを持ちがちです。また同時に嫉妬も意識します。
日本的根性論とは物資がどうしても足りなくて何かを選ばなければならなくなった時 「そんなことはない知恵を出して汗を掻けば第三の道があるはずだ」 と物資の限界を無視してしまうことだと思います。これは大変根強く私たちに染み付いていて、データ軽視の姿勢もここに表れていると思います。
年齢を重ねてきて、これから重要な能力は「自分一人で充足できること」なのではないかと思っています。仲間がいれば幸福度は高まりますが、大人になるとコミュニティに入れてもらえるかどうかは、いい人でコミュニティに貢献してくれるかどうかで判断されます。ではいい人で与える人はどんな人か