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恒例のクールビズ批判の季節。2005年小池百合子が突如言い出したクールビズが夏物を仕入れたばかりの洋服業界を直撃し、実家の服屋は在庫の山、裏地屋や糸屋やボタン屋も瞬時に立ち行かなくなり、私を子供の頃から可愛がってくれたボタン屋さんが自死した哀しい記憶が甦る。以来百合子は不倶戴天の敵。
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「支那事変」と書くとそれだけで、文脈を無視して怒り出す人がノンフィクションを生業にする人の中にもいるらしい。「支那事変」は当時、閣議決定された正式な呼称であり歴史用語だ。そういうこともご存知ないのか、イデオロギーのためなら気に入らない言葉を封殺し、ねじ曲げることをよしとするのか。
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ドラマはフィクション。
全否定しないことと全肯定はイコールではない。
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だから、昭和30年代や40年代には当時を知る制作者が大勢いたから考証なり描写が正確なはず、と決めつけるような、特にメディア関係者の指摘には、いちいち個別には対応しないけど、それは全然違いますよ、あなたたち何百人の当事者とその家族にインタビューしましたか?とやんわりと申し上げておく。
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「紫電改のタカ」の「逆タカ戦法」、「あかつき戦闘隊」の「まぼろしの滑走路」などなど、昭和30年代、40年代の子供が熱狂した戦記漫画の世界だけど、今なら総ツッコミされそうだ。名作だとは思うけれど、そんな経緯を経て今日に至る時間の流れを無視して語ることは出来ないと思う。
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だから、当事者が大勢いた時代は考証が正確だった、というのは、挙措動作や言葉遣いなどの面では当たっているけれど、それ以外はほぼ当てはまらない。それは実際にその頃の映画を見て、漫画を読み、戦記本のいくつかをちゃんと読めばわかる。
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戦後、旧軍人が戦犯呼ばわりされ、その子供さえ酷いイジメを受けていた時代があった。当事者が大勢いるのに息を潜めざるを得ない状況。当事者名儀の出版物も、多くは作家の筆によるものだった。戦記漫画、映画も荒唐無稽なものが多かった。彼らがまともに口を開くようになったのは戦後50年を経た頃だ。
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11/22はボタンの日とか。2005年、小池百合子が突如言い出したクールビズが夏物を仕入れたばかりの洋服業界を直撃し、服屋は在庫の山、裏地屋や糸屋やボタン屋もあっという間に立ち行かなくなり、私を子供の頃から可愛がってくれたボタン屋さんが自死した哀しい記憶が甦る。以来百合子は不倶戴天の敵。
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気になるので再度。
「標的」→本来の意味は「訓練用の的」
攻撃の対象→「目標」
ーー近年特に目立つ誤用。
例)×特攻隊は敵空母を標的とした
○特攻隊は敵空母を攻撃目標とした
少なくとも戦争モノのドキュメンタリーではきっちり使い分けたい。
(『考証要集2』大森洋平著 文春文庫より)
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角田和男さんのような人格者ですら、
「空戦は回数を重ねるほどに強くなる。敵の搭乗員を生きて帰すと必ず次はもっと強くなって来る。だから撃つ」
と断言されていた。仏心を出すと恩返しどころか、強くなってまた味方を殺しに来るのだから、戦争という状況下でそれは正しい判断だと思う。
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落下傘降下する敵を撃った零戦搭乗員のことを書いたら、読者から「日本人がそんな武士道に反するようなことをするはずがない」と抗議の手紙が来たことがある。でもそれは平和が続いた戦後の価値観にすぎない。当事者が語り公式記録にも残っていることを、思い込みで否定するのはいかがなものかと思う。
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戦艦ミズーリに体当たりした零戦搭乗員の遺体を艦長が水葬にふしたエピソードが今更ながら流れてきたけど、ぶら下がっているリプが私が見てもナイーブに過ぎると思う。これは耳あたりのいいレアケースなので語り継がれているだけで、日本の搭乗員の骨をアクセサリーにして土産にした話などざらにある。
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定期おさらい。「一航艦」の読みは「いっこうかん」ではなく「いちこうかん」。同様に「一航戦」は「いちこうせん」、「一式陸攻」は「いちしきりっこう」。当事者と会って話せばそう読まないと気持ち悪い。某映画監修の際、そこだけ台詞の誤りを直し「いちこうせん」と再録音して貰ったことがあった。
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93年の春樹氏のコカイン密輸は、日本雑誌協会の空港パス、空港腕章を持つ部下カメラマン(税関の先へ入れる)を使い、運ばせて本人は手ぶらで出てくる手口で、そのため当時雑誌協会に所属し空港取材をしていた私たちも大迷惑をしたのだった。未だに思い出すとはらわたが煮え繰り返る思いがする。
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兄角川春樹氏がコカイン密輸で逮捕されて(のち実刑)29年。こんどは、あの時兄に代わって社長になった歴彦氏が贈賄で逮捕ですか。大手と言われる出版社の代表を務めた兄弟が2人も逮捕されるのは前代未聞じゃないか。春樹氏の事件は取材していたから歴彦氏も無関心ではいられない。 twitter.com/yomiuri_online…
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ちょうど77年前。「自衛のための戦闘は可」とされていた昭和20年8月18日、関東上空に飛来した米軍爆撃機B-32を横須賀海軍航空隊の零戦、紫電改が邀撃、小町定飛曹長、坂井三郎少尉、大原亮治上飛曹、多胡光雄大尉らが命中弾を与えた。米側の射手が一名、機上戦死。これが日本海軍最後の空戦になった。