明治時代に撮影された奈良の風景
明治時代に外国人によって撮影された日本の風景
音響メーカーとして有名なビクターの広告(昭和14年)。 ビクターのマークとなっているあの犬の名はニッパーといい、蓄音機から流れる亡き飼い主の声に聞き入っている様子が描かれています。
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
1869年6月20日、土方歳三が戦死しました。 箱館戦争では松前城を陥落させるなど指揮官として活躍し、新政府軍が上陸しても、土方が守る二股口では連戦連勝していました。 最期は新選組の守る弁天台場が新政府軍に包囲され孤立していたところを救出するために出陣したところを撃たれ亡くなりました。
1945年9月に撮影された、復員兵たちを乗せた運賃無料の復員列車。 1947年までに、約624万余人の方々が復員・引揚げにより日本に帰ってしました。
大正〜昭和初期に撮影された札幌の風景
明治時代に撮影された日本の風景
1889年1月18日、石原莞爾が生まれました。 関東軍の参謀として満州事変を起こし、約1万人の兵力で23万の敵軍を相手に立ち回り、満州を占領しました。 東京裁判では、連合国が日清、日露戦争の頃まで歴史をさかのぼり戦争責任を問うと言った際、だったらペリーを連れてこいと反論した逸話もあります。
今日は「忠犬ハチ公の日」です。 ハチの命日は3月8日ですが、3月はまだ寒く雪も残るため、一か月後の4月8日が「忠犬ハチ公の日」とされたと言われています。 また、ハチが生まれた秋田県大館市にもハチ公の銅像があり、渋谷駅前と同様に、毎年4月8日に慰霊祭が行われています。 #ハチ #ハチ公
1913年9月4日、田中正造が亡くなりました。 日本初の公害事件である足尾銅山鉱毒事件で抗議活動の中心となり、明治天皇への直訴も行いました。 その後も栃木県谷中村の貯水池化への反対運動に参加するなど抗議活動を続け、死去時にはほぼ無一文であったといわれています。
1872年1月13日、幕末四大人斬りの一人である河上彦斎が亡くなりました。 片手抜刀の達人で、佐久間象山を暗殺したことで知られています。 明治以降も攘夷を主張したことから新政府に危険視され斬首されました。 『るろうに剣心』の緋村剣心、『銀魂』の河上万斉のモデルとしても知られています。
1909年6月23日、 スリの大親分だった「仕立屋銀次」が、日暮里で逮捕されました。 全盛期には手下のスリを約250名抱え、更に弁護士も雇うほどで、その奢侈な生活ぶりから明治後期には「日本一のスリ一味の大親分」として有名でした。 「桃太郎電鉄シリーズ」の「スリの銀次」のモデルになっています。
1944年8月22日、対馬丸事件が起きました。 那覇国民学校の児童、教師ら1,661名が沖縄から長崎に向けて疎開する途中にアメリカ潜水艦の攻撃を受け、1,484名が亡くなりました。 乗客のほとんどが船倉にいて避難が遅れたうえ、他の船が攻撃を避けるために救助に向かえず、被害が拡大しました。
クスッとくる洒落英語(大正15年)
「正露丸」は「征露丸」とも呼ばれていました。 つまり、「征露」=ロシアを征伐するという意味で、日露戦争の期間に広く軍の間で使用されました。 戦後、戦勝ムードの中で民間にも知れ渡り、「ロシアを倒した万能薬」として多くのメーカーから販売され、日本独自の国民薬として普及していきました。
ルー大柴感漂う、大正時代の英語雑誌
1905年1月28日、竹島を島根県隠岐島庁に編入する閣議決定がなされ、竹島が正式に日本の領土となりました。 写真は竹島の漁民と韓国鬱陵島からの出稼ぎの海女の様子です。 記録には、海女への給与150円とあり、男たちの給与が100円であったことから、彼女らの技量が評価されていたことがわかります。
1945年6月29日、岡山空襲が行われました。 空襲警報が出されず不意打ちであったため、1,737名の死者を出しました。 岡山には陸軍兵舎、兵器廠、三菱航空機工場などの重要拠点がありましたが、アメリカ軍はこれら軍事的拠点よりもその下請けとなっている小規模工場、労働者を攻撃対象としました。
精神論色が強い結核予防法。 今となっては治療法が確立している結核ですが、1935年から終戦までは、「亡国病」として死因原因のトップに挙げられていました。
歴代総理大臣在職日数ランキングTOP30!
今日は秋分の日です。 戦前は秋季皇霊祭とされており、歴代天皇、皇族を春と秋にまとめて祀る日として祝日に指定されていました。 現在も宮中では従来どおり、秋季皇霊祭が行われています。 1948年から秋分の日として祝日とされており、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日とされています。
1594年10月8日、石川五右衛門が処刑されました。 都市部を荒らし廻り、豊臣秀吉によって一族もとろも処刑されました。 生きたまま油で煮殺され、子供を守るため自身が息絶えるまで子供を持ち上げていたという伝説が残っています。 江戸時代以降、伝説の大泥棒として多くの作品の題材となりました。
藤原兼子は、自身には子はいなかったものの、姪など親族が後鳥羽上皇との間に皇子を産んだことで権力を持つようになりました。 兼子が頭角を現し始めたのは、初めて結婚した45歳の頃で、一人目の夫を失った際には、兼子の政治力を求めて再婚の申込が跡を絶たなかったといいます。 #鎌倉殿の13人
渋沢栄一の長女の長女の歌子と二女の琴子の写真です。 歌子は枢密院議長となる穂積陳重に嫁ぎ、琴子は大蔵大臣、東京市長を務めた阪谷芳郎に嫁ぎました。 #青天を衝け