1864年7月8日、池田屋事件が起こりました。 新撰組は監察の山﨑丞らの活躍により攘夷志士が御所に火を放つ計画をしていることを察知、近藤勇・沖田総司・永倉新八ら4名で池田屋に突入します。 土方歳三ら援軍の到着もあり、新撰組は9名討ち取り、4名捕縛の戦果を挙げ、その名を天下に轟かせました。
寛永13年5月24日、”独眼竜”伊達政宗が亡くなりました。 政宗は徳川家光から「伊達の親父様」と慕われ、政宗も家光に諫言できるほど信頼を得ていました。 政宗が亡くなった時、幕府の命令で江戸、京都の庶民に対しても服すことが命じられ、これは外様大名に対する礼としては異例の対応でした。
1934年5月30日、東郷平八郎が亡くなりました。 東郷死去に際し「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が小学生の見舞状が新聞に掲載され、大きな反響をよびました。 死後に東郷神社が建立され神として祀られますが、生前乃木神社に対抗して、自身の神社の計画があることに強く反対していました。
明治時代の初めごろに撮影された人々の暮らし
明治時代に撮影された日本三景のひとつ 松島
今だからこそ聞きたい、幕末維新の長州藩の志士たちの名言
今日はエレベーターの日です。 1890年11月10日に浅草に完成した12階建の凌雲閣で日本初の電動式エレベーターが公開されたことを記念したものです。 しかし、当時のエレベーターはかご2機を同時に運転し1階と8階のみに止まる形式で故障も多く、のちに撤去され、1914年に再設されています。
1945年6月5日、神戸大空襲が行われました。 神戸は終戦の年の1945年に大小合わせて128回の空襲を受けており、特に大きかった2度の空襲と6月5日の空襲で神戸市全土が壊滅状態となりました。
@oldpicture1900 リツイートありがとうございます。 こちらの写真は1872年の開業当初の品川駅の様子です。 海沿いというか、もはや海ですよね。
アメリカ人写真家によって撮影された明治時代の日本の風景
今日は新選組の日です。 京都・壬生に詰めていた新選組の前身「壬生浪士組」に、会津藩主で京都守護職の松平容保から会津藩預りとする連絡が入り、新選組が正式に発足したことにちなみます。 その後、池田屋事件、禁門の変で活躍し、知名度も上がっていくことになります。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失、襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
1185年4月25日、壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡しました。 6歳の安徳天皇をはじめ、母の建礼門院、平宗盛、平知盛ら一門が次々と入水しました。 この内、平宗盛、平時忠、建礼門院らが生き残り京に護送され、総帥であった平宗盛は斬首、平時忠は流罪、建礼門院は出家し余生を送りました。 #鎌倉殿の13人
明治時代に撮影された会津藩の本拠地会津若松城の様子。 戊辰戦争から5年後の1873年に城内の建物は解体されました。
1989年2月9日、漫画家の手塚治虫が亡くなりました。 来る仕事をほとんど拒まなかったため、常に原稿の締め切りに追われていたそうです。 そのせいか、鉛筆で下書きをせずにペン入れしたり、揺れるタクシーや飛行機の中でも、フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができたようです。
940年3月25日(天慶3年2月14日)平将門が討死しました。 将門の首は京で晒し首となりますが、何ヶ月経っても腐らず、目を見開いていました。 やがて首は関東を目指して空高く飛び、途中で力尽きた場所が、現在の大手町にある将門塚であるといわれています。
1945年6月23日、沖縄戦の指揮官を務めた第32軍司令官の牛島満が自決しました。 牛島は自決の直前に軍司令部の事務員の女性に皮財布を遺品として託します。 女性事務員はその後1952年になって牛島の家族を見つけ出し、遺品の皮財布を夫人に届けました。 2枚目の写真は、作戦会議中の牛島(左端)です。
明治時代に撮影された安芸の宮島の風景
「あおい」が源氏物語の葵の上由来だとしたら、大姫は何か怨霊に取り憑かれている…? 葵の上は六条御息所の生霊に取り憑かれ、若くして亡くなった人物。 病に臥せりがちと伝わる大姫がこんなに元気なのも違和感あるし、鎌倉中に災いを振りまく存在になってしまうのでは…? #鎌倉殿の13人
ロサンゼルス五輪の馬術障害飛越競技での金メダリスト、西竹一。 西は10歳で父を亡くしたことで莫大な遺産を相続し、不本意ながら大金持ちになります。 そのせいか、お金の使い方が豪快で、イタリアで一目惚れした愛馬ウラヌスを購入する際も、相場の約5倍の価格でしたが、キャッシュで即決しました。
今日は山の日です。 2014年に制定され、お盆休みと連続させやすいことから、当初はお盆の前日の8月12日にする案が採用されていました。 しかし、8月12日は、御巣鷹山で日本航空123便墜落事故が起きた日で、山の日と制定するには不適切との指摘が相次ぎ、8月11日が祝日とされました。
元弘3年5月22日は鎌倉幕府が滅亡した日です。 後醍醐天皇の討幕運動に連動し、新田義貞を中心とした軍勢が鎌倉に攻め込み、4日間の戦闘を経て追い詰められた北条高時ら北条一族は、東勝寺で一族、家臣たちと自刃しました。 源頼朝が鎌倉に入ってから153年後のことでした。 #鎌倉殿の13人
1884年12月30日、東條英機が生まれました。 東條は三男でしたが、長男と次男はすでに他界しており、家督を継ぐ長男として扱われました。 戦争指導者のイメージが強いですが、実務能力に秀でた優秀な軍官僚で、天皇に対する忠義も人一倍あり、昭和天皇も東條に全幅の信頼を寄せていました。
山崩れで一族滅亡した戦国大名 内ヶ島氏理 戦いに敗れて滅亡した戦国大名は数多くいますが、災害で滅亡したのは内ヶ島氏だけです。 白川郷の支配者として君臨し、上杉氏や織田氏と渡り合うも、戦国最大の地震による山崩れに城ごと飲み込まれた内ヶ島氏の歴史を紹介します! rekishock.com/%e3%80%90%e5%b…
降伏した天狗党は当初は寺院に収容され、厚遇されていました。 しかし関東で天狗党の乱行を目の当たりにした幕府軍が到着すると、天狗党員は倉に押し込められ、最悪な衛生状態と厳しい寒さで20人以上が亡くなりました。 最終的に捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑されました。 #青天を衝け