【3.20硫黄島】1932年ロス五輪馬術金メダリストのバロン西(西竹一男爵)は1945年3月中旬、硫黄島で戦死したとされます。33年後「西大佐の遺骨発見」と大々的に報じられましたが、誤報でした。現在に至るまで日本人でただ一人の馬術金メダリストは、かの戦いから78年たった今も行方不明とされています
【3.21硫黄島】「散るぞ悲しき」との硫黄島発の決別電報を受けた大本営は78年前の今日、守備隊が玉砕したと発表しました。67年後、遺骨収集団が通信班の拠点と機械類を地下壕で発見した、と新聞が報じました。付近で見つかった遺骨は「栗林中将の指示で打電した無線班員の可能性もある」とも報じました
【3.23硫黄島】硫黄島通信隊は父島経由で本土に電文を送っていました。父島側の将兵によると、硫黄島からは玉砕したはずの3月17日以降も電報がきました。敵戦車の装甲の厚さなどの報告や兵士の殊勲上申が多かったといいます。そして78年前の今日、最後の電文が届きました。「父島ノ皆サン サヨウナラ」
【3.25硫黄島】78年前の今日は、硫黄島から「散るぞ悲しき」との決別電文を送信した栗林中将以下400人が最後の総攻撃に出た日です。出撃まで過ごした壕は内部から出口にかけて急斜面でした=写真=。大切な家族を本土に残した兵士たち。決死の地に向け、どんな思いで駆け上っていったのでしょうか…。
【3.26硫黄島】78年前の今日、全国から集められた兵士でつくる硫黄島守備隊は玉砕しました。硫黄島戦は本土爆撃のため島の飛行場を奪いたい米軍と1日でも長く阻止したい守備隊が激突した戦いでした。守備隊最後の出撃先。それは飛行場方面でした。最後まで本土空襲を妨げようとし、そして力尽きました
【硫黄島玉砕】通信隊の最期を巡る情報は様々です。父島の元将校によると、玉砕前に「サヨナラサヨナラジカンガナイジカンガナイ」との電文とともに「●ニヨロシク▲ニヨロシク…」と人名や住所を交えた電文が次々と届いたそうです。死に際し、大切な家族らに最後の思いを伝えようとしたと推察されます twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島からの手紙】戦時中、兵士達は任地を家族に知らせることを禁じられていた。ある兵士は出征前「点をつけた字の二つ下の字を読んでくれ」と妻子に伝えた。やがて戦地から家族に届いた葉書。兵士の息子は言われた通り読んでみた。「い」「お」「う」「島」だった。
詳細は下記blogをご参照ください(写真は一部加工しました) nhk.or.jp/matsue-ana-blo…
【硫黄島への手紙】家族を思う心は昔も今も同じだと硫黄島の遺骨は伝えています。米軍に塞がれた地下壕で78年に見つかった遺骨は、子供の字で書かれた手紙の束を握りしめていました。「お父さん元気ですか。僕も元気で毎日学校に…」。遺骨収集団員は涙が出て全てを読めなかったと報告書に記しています
【硫黄島からの手紙】硫黄島で栗林中将に次ぐ陸軍ナンバー2だった大須賀少将。人柄や消息など不明点が多い将軍です。「敵は島にやってきません。お父さんががんばっているので恐ろしいのでしょうアハハ」ー。本土防衛の最前線から届いた手紙には、我が子を笑顔にさせる文章があれこれ記されていました twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島で少年時代】を過ごした旧島民は私に語りました。「小さい子を見るなり、わが子を思い出すのか、抱っこする兵士が多かった。遠くの哨兵とよく手旗信号をした。ヘイタイサンゴクロウサマと送るといつもアリガトウ。あの優しい兵隊さん達は皆、戦死したのかと思うと今も胸が張り裂けそうになる」 twitter.com/iwojima2020/st…
【4歳の硫黄島】1940年に硫黄島で生まれた女性。かろうじて防空壕内の記憶が今も残る。家族が一緒にいた。遅れて逃げ込もうとした見知らぬ兵士が入口で被弾、即死した。なぜ兵士は遅れたのか。「私たち親子を先に入れたからでしょう」。兵士が自分の命と引き換えに守った4歳児は今、82歳になりました。 twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島兵士の演芸大会】が畑で開かれたのは44年3月の陸軍記念日です。兵士らは島民から借りた学帽や服で仮装してのど自慢を行い「いいぞ!」「うまいぞ!」と大盛り上がり。しかし一人の兵士が「誰か故郷を想わざる」を歌うと歓声は次第に小さくなり、すすり泣く声も。この1年後、彼らは玉砕しました twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島っ子の集合写真】こんなにも多くの児童が疎開命令前の硫黄島にはいました。隣の友達と笑う子、先生の顔を見上げる子…。「二十四の瞳」のような思い出が硫黄島には多く残されています。なのに、彼らと子孫は今なお自由に里帰りができません。そんな日本の領土は、北方領土だけではないのです。 twitter.com/kurishimu/stat…
【硫黄島 メダカの活躍】川がない渇水の島でも人々の生活は豊かでした。民家には雨を貯める飲料水用水槽が。島民は貨客船が本土から運ぶメダカを買い、水槽に放ちました。ボウフラの天敵だからです。メダカが死んだらその水は飲みません。水質のバロメーターでもありました。島民2世から聞いた昔話です twitter.com/Iwojima2020/st…
【硫黄島民のホームラン】戦前1千人が豊かに暮らした硫黄島。島民野球チームが複数ありました。ボールは島内の天然ゴムと麻で手作り。「そのボールが弾みすぎるから試合はいつも乱打戦。バットに当たれば本塁打。残されたこの写真のスコアもまさにそう」。島民2世からそんな話を聞き、ほのぼのしました twitter.com/Iwojima2020/st…
【硫黄島の名物グルメ】激戦ばかりが注目される硫黄島。島民1千人が平和に暮らした戦前は食文化も花開きました。旧島民宅で昨年ご馳走になった島寿司もその一つ。ネタは醤油漬けトビウオ。島になかったワサビ代わりのカラシとの相性は抜群。美味しさに驚いた私の心は戦前の島にタイムスリップしました twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島寿司 旧島民直伝レシピ】です。醤油漬けのじっとりとした味わいがたまりません。フォロワーの皆様方も是非ご自宅でお試しを😆 twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島に渡った朝鮮人軍属】は大勢いました。93歳の旧島民の男性は少年時代、軍属と交流した一人です。「朝鮮人が島のお年寄りに親切にする姿を何度も見た。畑仕事を手伝ったり荷物を持ってあげたり。彼らに島唐辛子を渡すと飛び上がって喜んでくれた」。そんな彼らも硫黄島戦で大勢犠牲になりました twitter.com/Iwojima2020/st…
【硫黄島民のグルメ(゚д゚)ウマー】島民2世直伝の「パパイヤのきんぴら」の美味しさに驚きました。スライスして砂糖、醤油、みりんで味付し炒めるだけ。戦火で焦土化する前の硫黄島は、砂糖の産地でもありました。柔らかな甘みを味わいながら、平和だった時代に思いを馳せました。皆様も是非お試しを― twitter.com/Iwojima2020/st…