硫黄島民の故郷の味「島寿司」をご存じでしょうか。ネタは鮮度を保つため醤油漬け。島にはワサビがないからカラシを使用。旧島民の男性(84)が本日、期せずして自宅で握ってくれました。美味しさは抜群。土日を使って戦争取材を続ける自称「旧聞記者」の心は、戦前の硫黄島にタイムスリップしました。
【硫黄島からの手紙】戦時中、兵士達は任地を家族に知らせることを禁じられていた。ある兵士は出征前「点をつけた字の二つ下の字を読んでくれ」と妻子に伝えた。やがて戦地から家族に届いた葉書。兵士の息子は言われた通り読んでみた。「い」「お」「う」「島」だった。
【硫黄島の名物グルメ】激戦ばかりが注目される硫黄島。島民1千人が平和に暮らした戦前は食文化も花開きました。旧島民宅で昨年ご馳走になった島寿司もその一つ。ネタは醤油漬けトビウオ。島になかったワサビ代わりのカラシとの相性は抜群。美味しさに驚いた私の心は戦前の島にタイムスリップしました twitter.com/iwojima2020/st…
【3.23硫黄島】硫黄島通信隊は父島経由で本土に電文を送っていました。父島側の将兵によると、硫黄島からは玉砕したはずの3月17日以降も電報がきました。敵戦車の装甲の厚さなどの報告や兵士の殊勲上申が多かったといいます。そして78年前の今日、最後の電文が届きました。「父島ノ皆サン サヨウナラ」
【4歳の硫黄島】1940年に硫黄島で生まれた女性。かろうじて防空壕内の記憶が今も残る。家族が一緒にいた。遅れて逃げ込もうとした見知らぬ兵士が入口で被弾、即死した。なぜ兵士は遅れたのか。「私たち親子を先に入れたからでしょう」。兵士が自分の命と引き換えに守った4歳児は今、82歳になりました。 twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島寿司 旧島民直伝レシピ】です。醤油漬けのじっとりとした味わいがたまりません。フォロワーの皆様方も是非ご自宅でお試しを😆 twitter.com/iwojima2020/st…
#硫黄島 の遺骨の多くは土にかえった】そんな見方がある。しかし、遺骨収集団に参加した私は目にした。土から出た遺骨のうち大腿骨などは原形を保っていた。人の骨は予想より重く、ずしりとした感覚が手のひらから消えない。遺骨は風化に抗っているように思えた。故郷へ帰るため、まだ戦っているのだ
【硫黄島 メダカの活躍】川がない #硫黄島。民家には雨を飲料水として貯める水槽がありました。島民は貨物船が本土から運ぶメダカを買い、水槽に放ちました。ボウフラの天敵だからです。メダカが死んだらその水は飲みません。水質のバロメーターでもありました。島民2世から本日聞いた硫黄島昔話です
【硫黄島で少年時代】を過ごした旧島民は私に語りました。「小さい子を見るなり、わが子を思い出すのか、抱っこする兵士が多かった。遠くの哨兵とよく手旗信号をした。ヘイタイサンゴクロウサマと送るといつもアリガトウ。あの優しい兵隊さん達は皆、戦死したのかと思うと今も胸が張り裂けそうになる」 twitter.com/iwojima2020/st…
【3.25硫黄島】78年前の今日は、硫黄島から「散るぞ悲しき」との決別電文を送信した栗林中将以下400人が最後の総攻撃に出た日です。出撃まで過ごした壕は内部から出口にかけて急斜面でした=写真=。大切な家族を本土に残した兵士たち。決死の地に向け、どんな思いで駆け上っていったのでしょうか…。
【硫黄島への手紙】家族を思う心は昔も今も同じだと硫黄島の遺骨は伝えています。米軍に塞がれた地下壕で78年に見つかった遺骨は、子供の字で書かれた手紙の束を握りしめていました。「お父さん元気ですか。僕も元気で毎日学校に…」。遺骨収集団員は涙が出て全てを読めなかったと報告書に記しています
【令和の帰還兵 初の迎春】厚労省内に「霊安室」があるのをご存知でしょうか。当年収容された戦没者遺骨が安置されています。先日 #硫黄島 戦没者遺族と共に拝礼する機会を得ました。入室すると祭壇には鏡餅が。「ようやく本土でお正月を迎える訳ですから…」。担当部局の職員の心遣い。目が潤みました
【硫黄島兵士の演芸大会】が畑で開かれたのは44年3月の陸軍記念日です。兵士らは島民から借りた学帽や服で仮装してのど自慢を行い「いいぞ!」「うまいぞ!」と大盛り上がり。しかし一人の兵士が「誰か故郷を想わざる」を歌うと歓声は次第に小さくなり、すすり泣く声も。この1年後、彼らは玉砕しました twitter.com/iwojima2020/st…
【3.20硫黄島】1932年ロス五輪馬術金メダリストのバロン西(西竹一男爵)は1945年3月中旬、硫黄島で戦死したとされます。33年後「西大佐の遺骨発見」と大々的に報じられましたが、誤報でした。現在に至るまで日本人でただ一人の馬術金メダリストは、かの戦いから78年たった今も行方不明とされています
【3.23硫黄島】#硫黄島 通信隊は父島経由で本土に電文を送っていました。父島側の将兵によると、硫黄島からは玉砕したはずの17日以降も電報がきました。敵戦車の装甲の厚さなどの報告や兵士の殊勲上申が多かったといいます。そして76年前の今日、最後の電文が届きました。「父島ノ皆サン サヨウナラ」
【硫黄島っ子の集合写真】こんなにも多くの児童が疎開命令前の硫黄島にはいました。隣の友達と笑う子、先生の顔を見上げる子…。「二十四の瞳」のような思い出が硫黄島には多く残されています。なのに、彼らと子孫は今なお自由に里帰りができません。そんな日本の領土は、北方領土だけではないのです。 twitter.com/kurishimu/stat…
【硫黄島からの手紙】硫黄島で栗林中将に次ぐ陸軍ナンバー2だった大須賀少将。人柄や消息など不明点が多い将軍です。「敵は島にやってきません。お父さんががんばっているので恐ろしいのでしょうアハハ」ー。本土防衛の最前線から届いた手紙には、我が子を笑顔にさせる文章があれこれ記されていました twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島民のホームラン】戦前1千人が豊かに暮らした硫黄島。島民野球チームが複数ありました。ボールは島内の天然ゴムと麻で手作り。「そのボールが弾みすぎるから試合はいつも乱打戦。バットに当たれば本塁打。残されたこの写真のスコアもまさにそう」。島民2世からそんな話を聞き、ほのぼのしました twitter.com/Iwojima2020/st…
【3.26硫黄島】78年前の今日、全国から集められた兵士でつくる硫黄島守備隊は玉砕しました。硫黄島戦は本土爆撃のため島の飛行場を奪いたい米軍と1日でも長く阻止したい守備隊が激突した戦いでした。守備隊最後の出撃先。それは飛行場方面でした。最後まで本土空襲を妨げようとし、そして力尽きました
【硫黄島玉砕】通信隊の最期を巡る情報は様々です。父島の元将校によると、玉砕前に「サヨナラサヨナラジカンガナイジカンガナイ」との電文とともに「●ニヨロシク▲ニヨロシク…」と人名や住所を交えた電文が次々と届いたそうです。死に際し、大切な家族らに最後の思いを伝えようとしたと推察されます twitter.com/iwojima2020/st…
【硫黄島の旧島民直伝の島寿司】の握り方はとっても簡単でした! ●握り方は様々だがネタは主にサワラ ●スーパーのマグロでも十分美味い ●醤油漬けは5分。味も色も程良い ●ワサビ代わりの和ガラシは百均のチューブ入りで十分。寿司型も百均で可 ●酢飯は茶碗1杯で8貫 皆様ご家庭でお試しをー。
【硫黄島怪談?】霊を信じない私ですが硫黄島の調査をしていると不思議な話と出会います。例えばある遺骨収集団員の体験記。「島で4柱を収容して本土に帰った数日後、初対面の人から、こう言われた。『あなた4人の兵隊さんを連れて帰ってきたね』。驚いて理由を聞くと、4人立っているのが見えると…」
「バロン西といふアナウンスが響き観衆が嵐のような拍手を浴びせた」。1932年ロス五輪表彰式を伝えた新聞の一文です。西竹一男爵(#硫黄島 で戦死)は今なお日本人唯一の馬術金メダリスト。国際社会で日本が孤立化しつつあった時代、ウラヌスと人馬一体で見事な技を見せ、国の枠を超え、讃えられました
【硫黄島 エピローグ】#硫黄島 の遺骨収集の取材に十年以上協力してくれた戦没者遺児Aさんが亡くなりました。硫黄島戦の悲劇を直接知る世代が一人もいなくなる時代はもう目前だと再認識し、悲しみと焦りが増しました。Aさん、微力ながら硫黄島史の風化に抗う取材の日々を、どうか天国で見守って下さい
【3.25硫黄島】76年前の今日は、#硫黄島 から「散るぞ悲しき」との決別電文を送信した栗林中将以下400人が最後の総攻撃に出た日です。出撃まで過ごした壕は内部から出口にかけて急斜面でした=写真=。大切な家族を本土に残した兵士たち。決死の地に向け、どんな思いで駆け上っていったのでしょうか…