26
父的には、子供が見る番組というが前提なので、前者のスタンスでデザインをするべきという考え方だったが、
成田さんは後者のスタンスだったと。
「彫刻家だからさ、まずは見栄えに走るんだよ」
まあこれはどっちが正解というのもないし、実際成田メカ、カッコ良いしねぇ…。
27
父が亡くなる数年前に「成田さんねぇ、まあ怪獣は確かに良くあんなの思いつくよなって感じでスゴいよな。メカはなぁ…まあ絵は上手かったよ確かに、彫刻家にしてはさ…」
と成田さんを褒めるようなことを言ったので、母と「人って本当に年をとると丸くなるんだなぁ」と感心しましたね。
28
成田さんと父の関係は、両者を知っている母に言わせると、「寡黙とまで言わないけど、口数も少なく真面目で職人肌の成田さんと、金持ちのボンボンで、おしゃべりで、お調子者で遊び人のお父さんが合うわけないじゃない」と一刀両断でした。
29
最近気づいたが、大学時代から円谷プロに入って、辞めた後は生涯フリーだった父にとって、成田亨という人は、最初で最後、人生でたった一人の“上司”だったんだよなぁと。
天国で再会して和解しているか、またケンカを再開しているか…。
そんな事を考えながら、週末の『特撮のDNA展』に行ってきます。
30
『シン・ウルトラマン』の特報映像。
有岡大貴くんの左上に映るモニター画面に注目!
「これ、コンクルーダーじゃないかっっ!!」
しかも、この写真のヤツ!
いやー『マイティ・ジャック』ぶっこんできたねぇ!
う、嬉しい…
#シンウルトラマン
#シン・ウルトラマン
31
32
33
35
長時間の車移動で、着いたらグッタリしていたのですが、これを見たら、元気を取り戻したって感じでした。
その後は、ゴジラは怖すぎてダメでしたが、外の園内のアトラクションはたくさん乗って楽しんでました。
満足だったみたいで、今週末も行きたいと言っていて困っています。
36
「怪しい隣人」は特撮美術を父が担当した回。
もし押井守監督がヒントにされていたりしたら、こんなに光栄な事はないですね。
子供としては、「これが四次元空間だ!」と父が真顔でデザインしたのを想像して、あのシーンはちょっと笑ってしまいましたけど(笑) t.co/E87qZoUDaN
37
38
@ayumiruge ただ、この言葉の後に、
「でも、金はとにかく使ったよ。あんだけ好き勝手に、金つぎ込んだ事、その後の人生では無かったからな」
当時、大卒一年目の23歳。若さゆえの暴走で、イケイケだったみたいです。
39
40
円谷監督は、いきなり火山の模型を水槽に逆に浸し、
模型の上から、絵具を大量に垂らし始めた。そうすると見事に火山からの煙が表現されたとの事。
その時、円谷監督から父が言われた言葉…。
円谷「“出来ない”ことは無いぞ。いいか、お前は“出来なかった”んじゃない。“考えつかなかった”だけだ」
41
55年前。
円谷プロの社員だった23歳の父は、『ウルトラマン』の制作のための人手が足りないため、大規模のアルバイト募集をかけた。
その募集を受け、当時20歳の母は美センを訪れた。
やがて二人は結婚し、私が生まれた。
ありがとう『ウルトラマン』!そしておめでとう!
#ウルトラマンの日
42
43
小さい頃、父に「ウルトラマンに会いたい」と言ったら、古谷敏さんに連絡を取ろうとし始めたので、母が「そういう意味じゃないでしょ」と父を止めてたことがありましたな。
大きくなってから、黒部進さんじゃなくて古谷さんなんだ、さすが特撮班と思いましたな。 twitter.com/ZIAINOYUUSYA/s…
44
明日8月29日の4K『ウルトラセブン』は第23話「明日を捜せ」です。
父の特撮美術担当回で、セブン最後の作品になります。
この後、セブンを離れ『マイティジャック』に専念することになります。
第24話からは池谷仙克さんが単独で担当する事に。
皆さん観て下さいね。
www4.nhk.or.jp/P6565/x/2021-0…
45
大変不謹慎な話と自覚していますので、
不愉快な思いをされた方がいた場合削除致します。
911は父と一緒にニュースを見ていました。
WTCに飛行機が衝突するシーンを見た父が、
「これが正解か…」
と呟いたのが、印象に残っています。
本当にウルトラマンを作っていた人なんだなと感じたので。
46
円谷プロ時代から、飛行機がビルに突っ込むシーンを何度も試行錯誤しながら、仲間と考えて作っていたが、結局それは想像の範疇でしかなく、どうなるのが正解か解らず作っていたと。
特撮の現場から30年近く離れてから、全く予期しない方向から、正解を見せられた…という感慨だったみたいです。
47
数日経って、多くの犠牲者が出た事を知った後は、もうその話はしませんでしたが、一瞬だけ、特撮マンとして面が出たのだと思います。特撮マンとしての性(さが)と言いますか…。
このツイートが不愉快だと思われた方がいればすぐに削除致します。
48
多くの人が亡くなった事件を見て、そんな事を思うのは不謹慎と言われても仕方ありませんが、当時リアルタイムで見られた人には多少理解していただけるかと。
情報も錯綜し、目の前での出来事が、犠牲者が出た現実の事件として瞬時に受け入れる事が出来なかったのは、自分の体験としても覚えています。
49
50
時は、1968年の9月~11月の間くらい。母は22歳。
作品制作の累積赤字、「マイティジャック」の低視聴率など、円谷プロの経営が危なくなってきた頃。
こうなるとまず初めに行うのが最盛期50人~80人くらいいたらしいアルバイトの整理。ばんばんアルバイトの契約を切ったとの事。