フカフカ(@fukafuka_9)さんの人気ツイート(新しい順)

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「後半はもう嫌でな。中野さんの顔見るたびに逃げてたよ。二度とやりたくないね」 とも。 二人で飯塚定雄さんの手伝いをしていたんですな。 でも、その細かい作業が、当時の子供たちを喜ばせ、忘れ得ぬ光景にしたんですね。 お疲れ様です、ありがとうございました。 合掌です。
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【スペシウム光線の苦悩】 父は生前 「スペシウム光線ってどうやってるか知ってるか?あれは、フィルム一コマ一コマに、一本一本傷つけて書いてるんだよ。中野(稔)さんに言われて、良く手伝わさせられた。物凄い単純で細かい作業でな、あれは並みの精神力じゃあ出来ないよ」 と良く言っていた。 twitter.com/tsuburayaprod/…
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コケたと言われると、父にとっては物凄く思い入れがあった作品なので哀しい気持ちになるが、この作品が大当たりしていたら、自分がこの世に生まれて来なかった可能性が大なので、物凄く複雑な、気持ちになります…。 MJドッグは父の自信作になります。今年55周年なんで盛り上がったりしないすかね。 twitter.com/flandre0525/st…
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⑯ 今年はシン・ウルトラマンが公開され、アマプラで配信も始まりました。 「親父がやったメフィラス星人の回のあのシーン、あれ長澤まさみでリメイクされたぜ。長澤まさみだぜ、長澤まさみ」 と報告しようかと思います。 #シンウルトラマン
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⑭ 当時の円谷プロ、ウルトラマンのことを「実績や経験は少ないが、若き才能が集まった作られた」みたいな書かれ方がされるが、最近は、父もその中の欠けられないピースの一つだったのかなぁ…と思うようになりました。 なんて思うのは、身内贔屓が過ぎますかね(笑)。
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⑪ ウルトラマンもウルトラセブンも今観ているのとは違った姿の作品になっていた可能性もある。 まあ勿論、父以外の人がやって、より良い作品になった可能性もありますし、同時代の映画界とはかけている桁が二桁少ないと言われる中での予算ですけどね。
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⑩ 例えばそれらを作る時、父が金を渋る男だったらどうなっていただろうか。 成田さんや、金城哲夫さんが頭に描いたものを、実際の形にする時に「予算が厳しいから、これで妥協してよ」という人だったら、「子供番組だから、これくらいで充分じゃない」という人だったら…。
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⑨ 成田さんが頭の中で描いた怪獣を高山良策さんが、メカや建物、世界観を父が三次元化した。 父が円谷時代に自信作だったと言っていたのが、ウルトラマンのビートルの発射台やマイティジャックの水中ドックで、それらは成田さんのイメージラフから設計図を起こし具現化させたものだった。
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⑧ 一番驚いたのは、成田亨さんが、父の仕事を評価していたという話だった。 以前にもツイートしたが、父と成田さんは衝突ばかりしていたと聞いていたからだ。 twitter.com/fukafuka_9/sta…
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⑦ 父が死んで、当時円谷プロで一緒に働いていた母に尋ねたり、書籍を読んだり、いろいろな人の話を聞くようになった。 その中で、少しずつ円谷プロ時代の父に対しての見方が変わってきました。
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⑥ 父がどんな人間だったかを端的に言うと、何かを選ぶ時、一番値段の高いものを躊躇なく手に取る人だった。 もちろん限界はあるが、可能であればそうした。こと金銭に関しては、父の頭の中に「計画的」という言葉は全く無かった。 あればあるだけ使う人だった。この資質は、家族を本当に苦しめた。
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④ 当時の人たちはみな「予算が厳しかった」という。 だが、父は「円谷プロ時代は、好きなだけ金使ったなぁ。人生であれくらい何も考えずに金使ったこと無いな。本当に好き勝手やらせてもらったよ」と言っていた。
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③ 私には60年代の円谷プロの話を読むのが苦痛の時代がありました。 必ず「製作費を掛け過ぎて会社が困窮し、1968年に大量の人員整理が行われた」という一文が入るからです。 この「製作費の掛け過ぎ」の一因は父にあると思っていました。特撮美術は一番予算がかかる部門だと思われたので。
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② でも最近、当時の事を書いた本や資料、証言を聞くたびに、そうでは無かったのではないかと思うようになりました。 ここからは、身内贔屓の話になりますので、鼻で笑いながら読んでください。
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① 本日11月19日は #ウルトラマン #ウルトラセブン で特撮美術を担当した父深田達郎の5回目の命日になります。 父が亡くなる前、私は父はただ偶然に〝そこにいた人〟だと思っていました。 特撮美術を担当したのが父でなくても『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』は名作として後世に残っただろうと。
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それがかなり贅沢なオーディオコメンタリーだったと気づくのは、結構後になってからですよ…。
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#フォロワーの9割が体験したことなさそうなこと 子供の頃『ウルトラマン』を観ていたら、父親が寄ってきて、 「ああ、このビルなウェハースで作ったんだよ」とか「これはなカメラを反対にして撮ったんだよ」とか口を出してきたので、 「うるさいからあっち言ってよ」 と拒絶したこと。
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須賀川市の特撮アーカイブセンターへ行った。 だが、子供に「ほら、おじいちゃんがデザインした飛行機だよ」と見せてあげようと思ったコンクルーダーがいない! でも日本のどこかの展覧会かどこかに出張しているのだろう。 それはそれで嬉しいことではある。
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1966年7月17日。 ウルトラマン第1話『ウルトラ作戦第一号』放映日。 写真は『ウルトラマン研究読本』で見つけた22歳の父の姿。 クレジットは26話からだが、特撮美術の現場は父が仕切っていたとのこと。 ウルトラマンが伝説になるなんて、1㎜も考えていなかったという頃ですな。
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6月19日土曜日の深夜にウルトラマンの第1話「ウルトラ作戦第一号」と、第30話「まぼろしの雪山」が放映されます。 第1話の撮影中と、第30話のロケでの父の写真がありました。 特に第30話は父の特撮美術担当回。ウルトラマンの美術を支えたのは、成田亨先生だけじゃないぜ! nhk.jp/p/ts/PN3P16XW6…
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トレンド入りしている『ウルトラマンZ』がどういう作品かというと、 第1話 Z「ご唱和ください、我の名を!」 私「えっ、何それ(苦笑)」 ↓ ↓ ↓ 第25話(最終話) Z「ご唱和ください、我の名を!」 私「ウルトラマーーーンゼッッッットッ!!!!!」 という感じです。 #ウルトラマンZ
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『シン・ウルトラマン』観てきました。 観た人も、これからの人も、是非『ウルトラマン』第33話「禁じられた言葉」を観てもらえればです。 メフィラス星人の登場回で、父が特撮美術を担当しました。 23歳の若造に任せた、当時の円谷プロは凄いなぁ…。 #シンウルトラマン imagination.m-78.jp/video/dm9kL2Fl…
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観れないけど、「ふたりのウルトラマン」今やっているのか。 当時の円谷プロの経営ひどいというツイートが流れて来て、 「うぉぉぉ、うちの親父が金を使いすぎて済みませんっ!!!」 という心の中でジャンピング土下座するという、いつもの俺の病気が始まったよ…。
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その時に、特撮シーンを観ては悔しがっていたとの事。 「金は好きなだけかけた。技術だって海外に負けてないと思っていた。畜生、もっと時間があったらなぁ…。時間だけが本当に足りなかったんだ…」 (了) 写真は円谷プロ退社後に携わったNHKの『空中都市008』の撮影時のスナップです。
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“ピアノ線”が見えた時、二十代の若き男女が現場で、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら、どうしたら観てる人を裏切らないか、と思い格闘しながらも、出来てしまった傷跡だと思うようになりました。 父が死ぬ直前に、夫婦で携わった『ウルトラセブン』の再放送を二人で観てたそうです。 →