平田オリザ(@ORIZA_ERST_CF)さんの人気ツイート(古い順)

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数日前、私のテレビ出演を観た医療関係の知り合いから、公演中止になった若手をどうにか支援できないかとメールが来た。医療関係者を中心にクラウドファンディングを立ち上げ公演中止になった団体や個人を支援したいとのこと。もうすぐ始まります。
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薄く広く支援したいとのことなので、各団体20万円とか30万円になるかもしれませんが、できるだけスピーディーに届けたいと思って制度設計のお手伝いをしています。抜本的な解決にはなりませんが、舞台の道を諦める人が少しでも減ることを願っています。演劇・ダンス系と音楽系双方で支援の予定です。
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ありがたいのは、申し出をいただいたのが、医療関係者だという点です。人間の健康は心身ともにそろってだということを痛感していただいている。
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もちろん、政府や自治体にも支援をお願いしていきますが、それは少し時間がかかるし難しい面もある。「アートマネジメントに火急速やかな課題などない。とにかく、やれることからやる」というのは、カザルスホールの元プロデューサー、故萩元晴彦さんから教えてもらった話。
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たぶん、本当にきついのは中堅どころなのだけど、私が手伝えるのはとりあえず若手支援なのでご容赦ください。名もなき劇団は消えていくだけだけど、名の知られた劇団は、公的支援がないと、いくつか潰れるかもしれません。どちらも辛い。
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公募や支援の方法は後日発表します。もうしばらくお待ちください。  念のために書いておきますが、アゴラ利用団体は、こまばアゴラ劇場が救済措置を取りますので、この支援の枠組みには該当しません。
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うちも公演中止は初めてです。37年やってて。 初めての公演中止に思う 横内謙介Diary tobiraza.co.jp/blog/entry-993…
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物事の基準というのは、いろいろあると思うけど、とりあえず扉座が芝居を続けられないような国はダメだよ。どんなことがあっても。 twitter.com/ORIZA_ERST_CF/…
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大好きだった叔父が亡くなった。(コロナとは関係ありません) 赤ん坊の時から、とてもかわいがってもらった。 でも葬儀にも駆けつけられない。 いとこと少しだけ、電話で話をした。
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「昔は平田オリザさんは大林さんの甥なんですねと言われたけど、最近は、大林さんは平田オリザさんのおじさんなんですねって言われるんだ」と何度も嬉しそうに話していた。まぁ、そんなことはないだろうが。 twitter.com/ORIZA_ERST_CF/…
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私自身、若い頃は、自分から他人に「大林の甥です」と言うことはなかったので、いまでもそのことを知らない方は多い。大林さんが、なんかの勲章をもらったときのパーティーで南原さんが司会だったのだけど「え、オリザさん、なんでいるの?」と聞かれた。 twitter.com/ORIZA_ERST_CF/…
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正確には、「芸術家は神様と同じ仕事をするんだよ」ですけどね。 小学校三年生のときに言われました。 私の写真が若すぎる。 亡き大林宣彦さん「芸術家は神様」おい平田オリザ氏 nikkansports.com/entertainment/… @nikkansportsさんから
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Twitter上でもお問い合わせをいただきましたが、来年四月の開学を目指して認可申請中の兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称)は、順調に準備を進めております。観光とパフォーミングアーツが大打撃を受けた今こそ、このような大学を開学することに大きな意義を改めて感じています。
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私の父と、大林さんは、成城の東宝撮影所の裏手の同じアパートに住んでいました。厳密にいうと、一つ離れた部屋で、その二人の間に東陽一さんが住んでいたそうです。
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父と大林さんは、すぐに意気投合して、いまでいうインディーズの映画を作ることになった。父が十歳年上なので最初は父が監督、大林さんがカメラマンだったが、圧倒的な才能の差で、自然に大林さんが監督、父がシナリオという役割になる。
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父の死ぬまでの自慢は、「大林に最初に16ミリを持たせたのは俺だ」というものだった。
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大林伝説は数々あるけど、私が父から聞いたものの一つは、あの年代の男性では珍しくピアノが弾ける大林さんは、楽譜を見ながら口笛を吹いてフィルムにはさみを入れていく。それを後からつなぐとメロディと画面が完璧に一致していたというもの。
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「ああ、もう新しい時代が来た」と父は映画監督の道をあきらめたが、「あとから考えると、あんな奴は宜彦君以外いなかったので、ちょっと判断を誤った」と後悔していた。
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私はなぜか、子供のころから大林さんのことは「大林さん」と呼び、恭子夫人のことは「恭子おばちゃん」と呼んでいる。両親は「宣彦君」と呼んでいたので「宣彦おじちゃん」でもいいはずなのだが、子供心に、この人はちょっと別格の偉い人だと思っていたのかもしれない。
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大林さんは当時、すでに恭子おばちゃんと半同棲していた。結婚したかったのだけど、恭子おばちゃんには、面倒を見なければならない姉がいた。おそらく、姉との同居が、故郷秋田から東京に出てくる条件だったのだと思う。
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その姉は勉強ばっかりしていて料理などからきしできず、恭子おばちゃんが、その面倒を見なければならなかった。「だから結婚はできない」と恭子おばちゃんは大林さんに言ったらしい。そこで二つ隣の部屋に住むしがない作家志望と、その姉をくっつけることになった。それが私の父と母。
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よく、「私の今あるは、○○さんのおかげです」というスピーチを聞くが、私が生存しているのは、まさに、文字通り、生物学的に、大林夫妻のおかげなのだ。
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トキワ荘の青春のような実話。そして私はその申し子だ。 だから私には、若い才能を世に送り出す責務がある。 こんな物言いを芸術家はしていいのだと、いや、あえて、しなければならないのだという世界標準を教えてくれたのも大林さんだった。
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以上、偉大なる叔父、大林宣彦の追悼のために。 合掌。 天国で8ミリを回してください。
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あ、なので、義理の叔父です。血はつながっていません。 でも、子どもの頃は、よく「お泊まり」に行くくらいにかわいがってもらっていた。