猫とか犬とかが全力疾走してるのを横から見てると、背骨がムチのようにしなって、躍動してるのがはっきりわかります。なかなか絵では表現出来ないのですが。尺取り虫みたいなしなり方をしています。
車を描く時は、地面影を最初に描いて車輪を描いて、下から積み上げるように部品を重ねて描きます。車体の造形に心奪われるけど、まず足回りを先に決めて、描いてます。車体の描写に比重が傾いて、車輪の存在感が希薄な絵にならないように気をつけています。自動車の基本は車輪だという概念があるので。
楽器の持ち方について語られたツィッターを見ました。色々な道具の持ち方は、専門家が見ると「違う」となるのは中々避けられないですね。三味線のバチを上のように持ってる絵をよく見ます。本当は小指を引っ掛けるのです。家に三味線があって母がやってました。尊敬する葛飾北斎ですら間違っています。
積み木の立体構成みたいな訓練をして、こんな絵は苦労しないで描けるようになった気はします。積み木を描き続けるのはのはつまらない訓練で、大抵の人はすぐ飽きてしまいます。あまり他人にはおすすめできないのです。ホントに続けるのが苦痛な訓練なので。
私の絵の練習で一番やるのは、こんな感じの、誰もやりたがらないような地味な訓練です。これで頭の中にいろんな空間をブログラムすると言うか構築すると言うか。何度か出してるやつですが。新しいのもあるので。大変つまらない訓練なので、他人にはおすすめしません。
こういう絵がツイッターでは歓迎されない、ということは重々わきまえているのですが…
これは「玄関」という課題で描いたものです
事情通の同僚から、フォロアー増やす方法を教えてもらったので、それらをやらないようにしました。反抗的なので。人気作の二次創作をやれと言われたので、やりません。ただ以前、ウルトラマンの二次創作を描いたことがあります。ウルトラマンがどんな生物から進化したかを自分なりに考察したのです。
財布を拾う人、三態。オジサンの拾い方、カッコいい拾い方、カッコつけすぎの拾い方。こんなのはAIにもわかるまい。
日本の家庭では、靴を履いて家の中に入ることを禁じているので、子供はしばしば横着なことをします。 以前、関心を集めた小ネタですが、つい最近もいい年してやってしまいました。
人類の長い歴史の中で、椅子ごとひっくり返ったガキ共は何人いたのだろう?おそらく千や二千人では済まない。
黒板の文字を、右下がりに書く癖のある先生の授業では、生徒もこんな感じになるのかな?と思って描いた絵です。
AI絵師さんが話題になってて、自分もAIが描きそうな絵を描いてみたいと思って、ありがちな、いかにもAIっぽいポーズを描いてみようと思ったのですが途中で「馬鹿馬鹿しい」と思ってやめた絵。手の指の変な感じとかAI画をマネてみたのですが。
木材には大きく分けて、柾目と板目があって、用途が違うそうです。年輪の見え方が違うから区別はつきやすいです。寿司桶等は通気性のある柾目を使い、樽は水を通しにくい板目の木材を使うことが多いようです。そんなこと考えながら描くこともあります。
教わった木の描き方。枝を描いてスポンジみたく葉を塊で付けて、ディテール描き込む。真上から見て円筒になるよう、手前の膨らみに気をつけろと言われました。平板にならないように。意図的に平面的に描くこともあるけど。木の生命力が表現できなければ、うわべだけ完成度高くても価値はないらしい。
フランスの人が、脚立の向こう側は黄泉への入り口みたいに感じるから脚立の下はくぐらないと言ってました。縁起が悪いんだとか。日本人にはピンとこない話。こんなイメージなのだろうか?
私、新人の頃、大変に厳しい教育のされ方をして、なんというか武芸百般を仕込まれた、という感じだったのですが、正当な解剖学や遠近法なんかもあわせて、絵の持つ躍動感やノリやケレン味みたいなものの大切さも言われました。理論と感性の両立というか。犬の走りなんかも、勢いや躍動感が重要だとか
こんな意味のないおバカな絵もたまには描くのですが、今は忙しくて。今の私にとって。忙しいことは幸せなのですが
こういうのを沢山描いて、頭の中にいろんな空間を構築するのですが、つまらない訓練で、誰もやりたがらないので、他の人に無い武器になっような気はします。
こういう、地味な練習、またやろうかな。こんなことをくり返しやるのは、私くらいなのだけど、いろんな構成の絵が描ける気がして
前にも書いたけど、アニメ製作者の人やアニメ事情通の方々がしばしば、動かないアニメを揶揄して「紙芝居アニメ」と言うのだけど、それは紙芝居にあまりに失礼なたとえで、自分で作ってみると紙芝居も奥が深いことが解ります。ストーリーを効果的にする場面構成や構図、紙の抜くタイミングやテンポ等々