*h(@carouselambra00)さんの人気ツイート(新しい順)

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富野監督は昭和のころも「マシンを使ってもエロ小説って書けるのか!?」とワープロを前に本気で悩んだけど普通に使ってエロを書いていたので、今で言う「いつも新シーズン開幕のたびに文句言ってるくせに大会は環境トップのキャラを仕上げてエントリーしてくるプロゲーマー」みたいなもんではないかと
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Gレコ界隈で最大のベルリ・アンチであるマスク大尉ですが、ベルリのことは「キャピタルの裏切り者」とは呼ばず「アメリアの上級民と手を組んだ」と独特の表現で糾弾します。国が違えど上級民たちは近い世界観を共有しており、ベルリとアイーダも元から潜在的な仲間だったのだ!という認識なようです。
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富野監督はガンダムの世界の一般人をハサウェイのタクシー運ちゃんのように描いたりした一方で、講演なんかだと「365日飽きることなく田んぼを耕せる心がある庶民を愚民と言えるのか」みたいなことも言ってて、それが監督の中ではアムロの「絶望もしない急ぎ過ぎもしない」と繋がってるんじゃないかと
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アムロの「急ぎ過ぎもせず絶望もしない」は、いま目の前にある問題を自分が生きてるうちに解決するのは無理だと受け入れた上で、誰かが受け継いでくれることも疑わず自分が生きてる間にやれる範囲はやろうという気持ちだとすると「それでもと言い続ける心」からは遠ざからないと駄目なんだろうなという
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「一度は愛した男のガンプラを捨てる女」というのは、すごく富野ガンダムっぽいので、そうなるとやはりガンプラを捨てられた男のほうも「感情を処理できん人類は、ゴミだと教えたはずだがな…」と精神的に無傷アピールしながら女を始末して、富野ガンダムっぽさを加速させてほしい
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ようやく反省した人類は1000年ほど平和でしたが、世代が変われば「宇宙世紀の滅亡は我々のせいではない」「いつまで先祖の罪を反省させられるのか」「我々は歴史を学んでおり先祖とは違う」と不満を持つ人々が現れて、元気に暴れまくる富野監督の最新作「Gのレコンギスタ」をどうぞ宜しくお願いします
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人類の大半はハサウェイを乗せたタクシーの運ちゃんと同じ考えだったので、だから言ったじゃねーか!的なノリで、まんまと宇宙世紀は滅びました。スペースコロニーは全て鉄屑になり、太陽系で人類の手が届く範囲内の資源も枯渇して、なんか人が人を食うレベルの地獄の地獄みたいな世の中になりました。
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Gレコでは地球人みんなで分担して地球を管理する仕組みができて、ハサウェイの時代からすると夢のような社会が実現したのに、その地球延命システムに携わる人々は「これは人の本来の営みと言えない」「我々だけ負担が大きい」「我々が我慢した分だけあいつらが贅沢する」と全員が被害者を名乗り地獄に
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最新作のGレコだと「宇宙世紀を滅亡させた祖先の罪を子々孫々まで受け継ぎ、過ちを繰り返さぬよう静かに世代だけ重ねていこう」という価値観が広まり平和な地球になったけど、宇宙世紀を滅亡させた当事者である世代は既に居ないので、人々は「宇宙世紀が滅んだのは俺ら世代のせいじゃねえ」と暴れだす
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閃光のハサウェイの後も、貴族とか『家』がノブレスオブリージュを受け継げば1000年の大仕事も出来るんじゃないかとか、原始母系社会に回帰はどうかとか、選ばれた民が鋼の意思で自己犠牲的な地球管理をするのはどうかとか、色々考えては「こんなん人間には無理や」って自分で壊すのを繰り返してたり…
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富野監督が逆シャア以降Gレコに至るまで延々と捏ねくり回してる「常人が目的の達成まで1000年かかるスケールの改革に取り組める仕組みを探そうプロジェクト」において、閃光のハサウェイは「社会からアカン人間だけピンポイントで摘出して風通しよくするのはどうか」を試行してた過渡期の作品なので…
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おそらく富野監督の考えるニュータイプは、このアムロの「何ともならん話は何ともならんのだと受け入れた上で、自分が生きてる時代にしておく仕事をしよう」と、自分は自分の努力の成果を味わうことはできないがそういうものだ、と思える「心のありよう」のことで、それが人間には無理やったんやろなと
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結局みんなアムロの言うように「絶望もしない、急ぎ過ぎもしない」という人間にはなれなかったんだろうな、というのは宇宙世紀の滅亡という歴史から推し量るしかないわけだけど…
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逆シャアのアムロは別に世直しをインテリの戯言と切り捨てたわけではなく急ぎ過ぎを警告しただけで、むしろ「何代もかけて変わっていこう。俺たちは何も得られず終わる世代だけど、それでいいと思えるようになろう」というアムロの立ち位置こそ「俺が救われないなら意味ない」と憤る人が多そうではある
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作品は計算で作らねばと思いつつも「モーー!!このままじゃ酷いことになっちゃうのヨ!」ってプリプリ怒りながらどんどん悪い方にストーリー展開させて、まんまと酷い結末になって「ほらぁぁやっぱりこうなっちゃったじゃないのよぉぉ!私言ったわよねぇぇ!」ってなってたのが昔の富野監督なイメージ
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富野監督は物事が自然な流れでエスカレートしていくのを描いているうちに、そらそうなるよ的な結果として酷いシーンに辿り着いちゃうだけなので、先に「これでも喰らえ」と叩き付けたい衝撃シーンがあって、そこに辿り着くように逆算して話を組み立ててると思われる大河内先生は方向性が異なるのでは…
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Gレコ造語だと思われがちな「なんじゃとて」は、魔夜峰央先生がパタリロとかでもカジュアルに使ってるので、きっと普段遣いしている地域があるのだろうと思っていた
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永野先生はエピソードの起承転結のバランスが淡々としてて「たったこれだけのできごとだったんだよ」みたいな話が多いんだけど、その「たったこれだけ」が人をこの先どんな人生でも越えていけるようにしたり、幾千年の絆に育っていったりとかするので、そういうのが好きな人はどうぞゴティックメードを
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謎のオカルトシステムを考えるより「サイコフレームが優しい心を拾うのは簡単なんです、だって同じ気持ちだもの」と書いておくのが一番きれいに纏まるし、そんなことは福井先生も承知だと思うんですけど、それは富野監督がボコボコに殴られながら辿り着いた場所だから簡単に選べないルートなんすよ多分
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だけど、それは富野監督が物を作り続けて行ったり来たり迷いながら積み上げてきた部分だから、きっと福井先生の立場からするとそのまま受け継ぐのは無理な部分なんすよね。自分自身が辿り着いた答えではなくて「ハッピーエンドを願う心は一つになれるんです」と書けば本当に軽い言葉になってしまうので
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たぶん富野監督は「世界を呪う心」を幾ら集めてもひとつになりにくいと思っている(後のVガンダムを観てると逆説的によく伝わってくる)ひとで、逆に「今から産まれてくる子らが幸せに暮らせたらいい」くらいの素朴な気持ちは容易くひとつになれるもので、それが逆襲のシャアのラストだったんだと思う
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そして「世の中の伸びしろは減ってくのに年寄りが手に余る問題を先送りにするから、若いやつは荷物ばっかり増えてスマンが、まあそういもんだ」と、お爺ちゃんが優しい眼差しで「でもお前らは好きにすればいいんだぞ?」と背中を叩いてきて、そんなん言われたら好きにできんやろ!笑というGレコになる
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これが後期のガンダムになると「やはり人間は地球から離れられないし、過去の世代から自分たちまで積み重ねられてきた歴史からも自由にはなれない」と作品の気分が変わってきて、昭和ガンダムでは侮蔑の言葉としてよく使われた「重力に魂を引かれる人間たち」が、そりゃ当たり前だろ笑とばかりに消える
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昭和の富野ガンダムだと、人が宇宙に出れば世界の全てがリブートされて、清められた人類はそれまでの因縁から自由になり、未来だけを見て生きていけるようになるという気分がある(だから安彦先生は「結局ニュータイプは世代論」という理解の仕方をする)ので、宇宙に過去からの怨念を持ち込む者は死ぬ
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昭和のガンダム好きな人が割と混乱する、確か「地球の重力に魂を引かれた人間たち」という言葉はガンダムにおいて侮蔑の表現だったはずなのに、平成以降の作品は「やっぱり人類は地球でしか生きられん!みんな大地に立とうな!」みたいになってて、作品に通底するルールがいつの間にか逆になってる問題