二十年くらい前、同性カップルの出てくる映画の評で「同性愛である必然性が感じられなかった」というのがあり、当時うまく言語化できなかっんだが「なんかおかしくないか」と思った。一年位前、今度は小説の評でまったく同じこと言ってる人がいたんだけど、さすがに時代遅れじゃね?と思った。
我々は自分の言動しかコントロールできないので、Twitterで酷い言葉に晒されている人に「しばらくTwitterから離れたら」と言いたくなるのはわかるし、実際に離れたこともあるし、離れたい人にはマジで離れてほしいのだが、それはそれとして酷い事を言ってる奴らに言いたいのは「お前らが出て行け」だ。
アセクシュアルの人間に「これからずっとアセクシュアルだって保証があるのか」みたいなことを訊く人、たとえ俺がいつの日か性的欲求なるものを覚えたとして貴様に何の関係が?でしかないよな。ないです。
「異性愛者/アロセクシュアル/シスジェンダーetcじゃない人々」は「異性愛者/アロセクシュアル/シスジェンダーである人々」に「我々と同じように『異性愛者/アロセクシュアル/シスジェンダー』でなくなれー!」と言っているわけではなく、同じ権利が欲しい/あるいは放っておいてほしいだけなのよ…
「お前はどうして異性愛者/アロセクシュアル/シスジェンダーetcじゃないんだ」と言われて「いやどうしてと言われても異性愛者/アロセクシュアル/シスジェンダーetcじゃないんで、そういう人はいるんで」と答えたら「多様性を!押しつけられた―!」とそういう人たちは言うのです…
「多様性の押しつけが~」と言う人は、実際は押しつけられてないものに文句を言っているのよ…実はその人たちの方が「多様性のない世界」を「既に多様である人々」に押しつけているのよ…「お前らはどうして我々と同じでいられないんだ」と言ってるのはそっちでしょ…
それは多様性の押しつけとは真逆でしょ…女の子っぽいものを好きだったり好きでなかったりする女の子や男の子やそれ以外の子はいて、あなたがたが何と言おうといるものはいるのです…多様性は既にそこにあって、最近「もうここにいるよ」という声が届くようになったというだけですよ…
そもそも「多様性」というのは押しつけられるものではないでしょ…「女の子だが女の子っぽくないものを好きな女の子」に「女の子だから」女の子っぽいものを好きになれと押しつけるのも、「女の子っぽいものを好きな女の子」に「女の子だから」って女の子っぽいものを好きになるなと押しつけるのも↓
「女の子っぽい」ものを好きな女の子が多様性の押しつけのせいで生きづらくない?みたいなツイートが流れてきたのだが、多様性というのは「誰であっても『女の子っぽい』ものを好きでいいし好きでなくてもいいのよ…」というものなのよ…
トランス差別についてもまったく同じことが言える。まだまだ知識のある人、声を上げる人が少ないトランス差別に加担したくないと思う非当事者にできるのは、実際に差別に直面している人、差別反対の声を上げている人に耳を傾けることのはずだ。 #トランス差別に反対します trans101.jp
暴力によらず社会を変えるために選挙はあるのであって、暴力によって起きたことで投票先を変えるのは、暴力を勝たせること。
いきなりどうしたん?と思われるかもしれないが、エリオット・ペイジのデッドネームが一瞬英語Twitterのトレンドに上がったためそれを打ち消そうとしています。今トレンドに上がっているのはElliot Page。デッドネームの十倍ツイートされている。ヘイトよりも抗議の声の方が大きいんだよ。 twitter.com/herve_guibert/…
売れない時代のオクタヴィア・スペンサーの車が故障して困った時には助けてあげ、億万長者になってもフツーに地下鉄に乗り、荷物を持っている人に席を譲り、出演映画のスタントマンにはハーレーダビッドソンを贈る…そういう人になりたいものである…
そして「信号を待ってる時隣り合わせたバイクに乗ったキアヌが『あ、写真撮る?』って感じでこっちを向いてくれてる写真」とか、「撮影現場で追い返されそうになったファンと一緒に写ってる写真」などが次々投稿されているのであった。世界に温かさをもたらす存在…それがキアヌ…
キアヌ・リーヴスが今英語のTwitterでトレンド入りしているのはなぜかと言うと、「飛行機で一緒になった若者に質問攻めにされ、いちいち答えてあげる姿が目撃された」からだそうです。今日もキアヌはキアヌである…
そもそも「異性愛描写=作り手が普通にやりたいこと」「同性愛描写=別にやりたくないのだが作り手が圧力によっていやいややらされていること」だとどうして人は思ってしまうのでしょう…
「外圧により同性愛描写が作品に加わった」のではないと思うよ…これまで外圧によって「すべて人は異性愛者!ロマンス=異性愛!」と描くことを強いられてきた作り手たちが、外圧から逃れてずっと描きたかったものを描き始めたというだけではないの…これはあなたたちの大好きな表現の自由ではないの…
トランス女性がスポーツでいつもいつも勝っていて、決して負けないからじゃない。「トランス女性が負けている姿」は都合が悪いんだよ。だから拡散されない。例えばトランスジェンダー初のオリンピック選手であるハバード選手は三回連続で失敗して記録を残せなかった。 jiji.com/jc/article?k=2…
何やら今このツイートにちょっと反応があるようなので言うね。トランス女性が女性スポーツで勝ちまくっている!みたいな動画が差別的な意味合いで拡散されているのを見たら、「当然だ」って思ってほしい。だってあの人たちは彼女たちが勝っているところしか拡散しない。 twitter.com/herve_guibert/…
だからいろいろな人々の登場するいろいろな物語が生まれ、自分を表す言葉を知らない人が、しっくりくる言葉に出会えますように。 #HappyPrideMonth
その空白の名札が空白のままでもたいして堪えない人もいれば、そこに書く名前をどうしても見つけたくて苦しむ人もいる。そしてフィクションに「自分と同じ」人を見つけることが、その名前を見つけることに繋がることもある。
むしろアセクシュアルメインの物語なんぞほぼ見かけたことがないし、アセクシュアルという言葉に出会ったのもごくごく最近だが、その言葉を知るまえから私はアセクシュアルだった。そういう人は多いんじゃないかと思う。どうして自分が「こう」なのかわからず、空白の名札をつけて生きている人。
子どもにLGBTについてのフィクションや情報を与えると「環境型LGBT」になる!みたいなロジックをよく見かけるが、大丈夫だよ…広告、映画・ドラマ、小説等ありとあらゆる物語がこれだけ性的な行為を宣伝しているけれども、私はアセクシュアルです。
「リアルな女性の人権問題ではフェミニストはだんまりで、フィクションの描写にだけかみつく」説を唱える人、それはあなたがフィクションに興味があり、リアルな女性の人権問題に興味がないから見えてないだけでしょ…フェミニストが沈黙しているのではなくあなたが聞いてないだけ…
フィクションの中でマイノリティを可哀想な存在として描くなと言うのは、マイノリティに向けられた差別をなかったことにしろという意味ではなくて、マイノリティには差別を向けられた結果、悲しい結末しかありえないという「呪い」をかけるなということではないのかい?