Twitterの何が良かったって、災害時に必要な情報にアクセスしやすかったのと、フォロー関係にない人のツイートも流れてきて、ときには海外のツイートも流れてきて、自分の外側に自分の見えてない世界も広がっていることが感じられるところだった。だったよ…。
私は子どもや保護者に文句が言いたいんじゃないの。インクルーシブ反対でも、現状積極的な賛成でもないの。現場に丸投げしてくるこの「システムの無さ」を嘆いてんの。
重い障害のある子をクラスに迎えて、インクルーシブ教育の本を買ったんだ。もう何年も前。「この子のこと書いてないな」って思ったんだよね。重い障害のある子を通常級でどうするかなんて書いてなかった。国語をどうするか。体育をどうするか。給食をどうするか。休み時間どうするか。書いてなかった。
駆け出しの頃に特別支援学校に勤めてた友人に教わった「ダメ」と「違う」の使い分け、今でも役に立ってる。いついかなるときもしてはいけないことは「ダメ」。今この場面ではよろしくない、ということは「違う」。「叩くのはダメです」「今、立つのは違うよね」みたいに使い分けている。伝わりやすい。
「怒らない育児」が「悪いことを悪いと教えない育児」と誤解されているところがあるの、もったいない気持ちになるな…。「大人がなるべくギャーッてなんない育児」の方が伝わる気がする。
猛暑は「半袖短パン」で 嬉野高で夏服導入 佐賀県の高校初のハーフパンツの制服(佐賀新聞) 「夏服は選択制で、6月28日から着用を始める。価格はポロシャツが2千円、ハーフパンツは3千円。」 制服としてはかなり安い…! news.line.me/detail/oa-saga…
甘えか甘えじゃないかなんていうのは個人の経験のレベルの話であって、その人、一人一人についてしか言い得ないぞ。氷河期、ロスジェネという単語がつくられているという時点で、社会の大きな動きがそこにあるということを意味している。これを放置しておくとどうなるかという俯瞰は大事です。
「経験してみてほしい」ってね、そんな恨み言言ってたら同じことの繰り返しなんだよね。自分も下も上もみんなでうまくいくのがいちばんいいよ。難しいのはわかっているけど。自分たちが苦労したからお前らも苦労すればいいなんて、それ、私たちが戦中派から言われて辟易したやつじゃん。やめやめ。
あの頃の価値観が抜けない私らの世代を、下は笑ったらいい。どんどん変えたらいい。ただ、私たちは別に、悠々と選んだわけじゃなかったということは、言い残しておきたい。
お茶汲みもしたし先輩の机も拭いた。そのために1時間早く出勤した。放課後は部活もみた。代わりはいくらでもいるって言われて役立つ自分であろうとした。そんなのさ、要らない伝統だと思うから自分の下には負担させないように少しずつ崩してる。笑い話になったらいいと思ってる。
教員採用試験だって10倍超えてて、満点取らなきゃ二次試験行けないって言われてたから満点取った。採用通知の電話に即答しないと2度とかかって来ないと言われていたから家族で電話番してた。採用6日前に電話来た。30キロ離れた学校だったけど即諾した。30人のゼミ生で4月採用は2人だけだった。
仕事を選ばなければってよく言うじゃん?だから選ばなかった人もいっぱいいたよ。だからブラックが存在できてたよね。仕事を選ばず働き口を探してがんばった結果、そんなところで働いてるの自己責任ですよね、あなたも片棒担いでる立場ですよねって言われる。そうね。そうかもね。なんだかな。
シンプルに求人がなかったんだよ。働きたいときに働き口の選択肢がものすごく狭かった。私たち、人口は多いのに常勤の枠は少なかった。高賃金も低賃金も奪い合いになった。日本は新卒の価値がめちゃくちゃ高いのに、新卒で行き場がない人がいっぱい出た。非常勤でも恵まれてる方だった。
この連ツイを、読んで欲しい人は読まない、と残念がる反応を見かけますがそんなことないですよ。私が届けたいのはオーディエンスです。1人2人のいじめっ子に響かなくても、10人20人のオーディエンスの意識が変われば、いじめは成立しにくくなる。そういう方向でしたのでありがたいです。
ここの「知らなかった」は「知らなかったんだから文句を言ったり笑ったりしてしまったことは仕方ないじゃん」のニュアンスです。「知らなかったし」にしたつもりだったんですが抜けました。
「あれは障害のある子ですよ」って言われて「知らなかった」とか「それならあらかじめ何とかすればいいだろ」とか言ってる人。あの日の私と同じくらい無知で傲慢でちっちぇーよな。せめて自覚しようぜ。私もちっちぇーけど、事情も知らない人様のことを、強者の位置から嘲笑しないようにするから。
令和の新しい子育てや発達の知見なんて持っていなくても、昭和のあのころにも、「人様の事情」というものの見方があった。知識なんかなくても人は謙虚であれるんだよ。
小学生だった私は、線路に降りたら危ない、駅で待てばいい、駅員に言えばいい、母親も子どもが間に合わなかったら自分も乗らなければよかったのに、と偉そうに言った。母は、人様にどんな事情があるかなんて他人にはわからない、何も知らない他人がこうすればなんて言うのは傲慢と言います、と言った。
教室で不要になった透明な衝立の活用術なんだけど、教卓に置いて朝の会の先生の話をYouTubeっぽくやったらすごいウケたので教員垢はみんなやってほしい。いつも高評価ありがとうございます〜って👍があるあたり指さすと、子どもたちエアで押す真似してくれるw
あ、「写真撮影は〜」と書いたのは一例としてわかりやすかったからと、見かけた話にも出てきたからでした。何の例でも良かったのですが。例えば「飲食はご遠慮ください」は「食べるな」という意味です。じゃ、ほんとにミュートします。
婉曲表現とはまた違う話だけど、私は「天地無用」を「ひっくり返しても良いよ!」って意味だと思ってた時期があり、父に悲鳴を上げさせたことがあります。玄関に置いてあった小包の裏を見ようとして。 ※「天地無用」は「ひっくり返したら絶対ダメだよ!中身が大変なことになるよ!」です。
誰が悪いわけでもない。ただ、この文化はもうメリットよりデメリットの方が大きいので、変えていく時期じゃないかな。
「じゃあそう書かない方が悪いんじゃん」ていうのも極端だと思うけどね。遠慮してって書く方は無意識に今まで通じてた言葉を使っているだけだし、でも、それが禁止の意味だと知らない子どもや若い人が損をするのも気の毒だし。
あと、やっぱ、ほんとにやめて欲しいことについて婉曲に書くのはやめようよ。「写真撮影は禁止です」って書けば済むことじゃん。そういう言い方は角が立つみたいな文化は薄めていきたい。
行間を読むっていうのとは違うし、慣例句の学習とも違うんだよね。なんかそういうことを論じたエッセイでも教材分にして教科書に掲載するとかしないと、教育的には落とし穴のままだろうと思う。