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オーストリアでは健康保険証が電子化されており、どの医者も過去の受診歴が見れるので初診でもアンケートは必要なく、医者は薬の処方を電子的に書き込むだけで紙の処方箋も必要なく、病欠の報告も電子的に行えます。大事なのは、これはこちらがスゴいのでなく、ただ日本が遅れているだけという点です。
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田嶋陽子先生の30年前の言葉「憲法に男女平等が明記されても、現在に至るまで現状がそれとは程遠かったのは、学校をはじめ社会が押しつける"女らしさ""男らしさ"の行動規範そのものに問題があったから」の現状が今なお続くのは、社会的強者である男性が問題を軽視し続ける傾向があるからだと思います。
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私はもうすぐ研究職を辞め、その後は妻の仕事のサポートに育児を主に行います。それに対し「(能力が)もったいない」と意見されることがあります。私の能力の有無は別として、この「(主に男性の)仕事=能力を発揮する場」という風潮がなくなることが、皆が生きやすい未来に向け重要だと思います。
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指摘されている部分の多くは、あまりに細かく入り込む差別的な表現の中でも際立つ部分だけであり、つまりは、考えが足りていないというより、考えるという行為自体を軽視しているのだと思います。その背景には多様性への無理解また無関心から、多様性を考えることを不自由との誤解があると想像します。
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テレビにて、商品を主に男性の一流料理人がジャッジするために食べるお皿を持ってくるのが全員女性。現代において全く必要のない演出だと思います。いちいちそんな細かいこと言うなと言うのなら、偏ったジェンダーロールを印象付ける偏った演出をいちいちそんなに細かく行う必要がありません。
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日本ではコンプライアンスやポリティカルコレクトネスなどについて指摘すると、いちいち細かすぎて自由がなくなるといった意見が未だにマジョリティ側から少なくない現状があります。しかし、いちいち細かく差別的な演出や表現が入りすぎているというのが現実です。
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例えば、専門的な仕事が男性としての視点しかない社会より、多様な背景の人が関わる社会の方が専門性が多角的に高まることは明らかだと思います。日本社会が次の段階へ進むのには、多様性をいかに受容できるかにかかっており、その意味で、メディア等の表現が変わる事は極めて重要だと思います。
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多様性を受容する社会は単純に多様な可能性に溢れる社会、自由度の格段に高い社会です。表現もこれまでの偏りがなくなり格段に多様な表現が可能になります。今まで閉じこもっていた中ではなく、海のように広がる外への自由、ここへの視点がないので、多様性を考えることを逆に不自由と感じてしまう。
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女性に対して容姿を誉める=良い事という差別的な誤解をする男性は特に高齢になる程多いと思います。誉められて嬉しいかと関係なく、男性が基本的人権が担保されない女性を人格でなく容姿で評価してきた差別の歴史の上に今があるという事実を無視していい人などいません。
yomiuri.co.jp/election/sangi…
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私はあと2か月で15年程の研究者のキャリアを事実上辞めます。研究者として可能な限りいい論文を書き学生を指導し、貢献ができたと思っています。しかし、吃音障害への無理解から話せないことには進めないこの先のキャリアへは進めませんでした。私はこれは私の敗北ではなく、社会の敗北だと考えます。
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これは障害に限らず性差別や人種差別など全ての差別に当てはまると思います。例えば性別や人種などによってキャリアが断たれた、理不尽な扱いを受けた、それは必要な可能性を失った社会の敗北でしかありません。差別された側が評価されなくとも何かをしたのならそれは個人として成功でしかありません。
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人間は賢くないので、差別は簡単にはなくなりません。私も男性として女性差別の意識がまだ多く自分の中にあると日々感じます。しかしせめて個人が個人の成功や幸せを自分の中で味わえる、そんな社会にはなって欲しいしそうしたいと私は思います。それは誰もが生きやすい社会への大事な一歩なはずです。
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もっと言うと、私は私としては成功し、失敗したのは研究業界また社会だと考えます。なぜなら、私は吃音障害を持つ中で達成しうることは出来たと確信しており、それが健常者と平等にキャリアに繋がらなかったのは、業界また社会の問題だからです。そして私は成功したと胸を張り次のステップに進みます。
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補足として、私にとっての成功は私の満足であり、何に満足するかも私の価値観からのものです。少なくともそうであるべきだと私は信じます。何が成功なのかも何が幸せなのかも人それぞれなはずで、そんな自由も許されない社会は、障害がある私に限らず誰にとっても生き辛いと思います。
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コロナ禍の医療現場は医療関係者の良心で成立という話を見聞きします。これに限らず日本では、役割を果たさない支配層を人々の良心がカバーするケースが多い。そして多くの場合、支配層は良心に甘え利用します。世界中で似た構図はありますが、日本の問題は、良心がカバーする割合が異常に高い点です。
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吃音で苦しむ一人として「これじゃ吃音の芸人テレビ出れないじゃん」という意見に思うのは、「まずは吃音に対する差別は確かにあるという事実を見て」、です。差別に対する抗議と吃音を持ちながら仕事に立ち向かう芸人さんは矛盾しておらず、差別があることが唯一の問題です。
news.yahoo.co.jp/articles/4bc2d…
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吃音を笑う人は確かにいますし、私も笑われてきました。差別のあるこの社会では、仕事もコンビニでの買い物も毎日は苦労の連続です。そんな中、吃音を無理解に笑う場面が放送されるなら辛いですし、そんな日々の中でも吃音を前向きに捉え人前に出る仕事を選ぶ人は心から尊敬します。どちらも本当です。
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つまり、「吃音を笑いに変えようとする芸人の吃音を笑ってはいけないなら、それはその芸人の武器を奪うことでありかわいそう」という意見は、まるで吃音への差別がない別の世界にいるかのような立場の意見ということです。汚い言葉を使うなら、いつもは差別しておいてどの口がそれを言う、です。
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注意していただきたいのは、吃音障害は、苦労をしていることすら気づかれないことの多い少し特殊な障害という点です。全く悪意なくほとんどの人が無理解であり、結果的に差別側になってしまいます。コンビニでお箸は何膳いりますかと聞かれるだけで苦しむ可能性があることは誰も悪意なく気づきません。
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吃音を武器にとは、吃音を持って生きてきたそのユニークな経験を武器にという意味だと私は理解します。そしてその話し方とユニークさは連動しており、そこも含めて笑うことができる社会を私は望みますし、私は、そんな社会を目指して抗議する人も、吃音を武器に戦う芸人さんも尊敬します。
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日本吃音協会が叩かれています。その批判の多くは番組への抗議の仕方が悪いという視点です。被差別者がマジョリティから差別の訴え方が悪いと評価される現象は、性差別や人種差別など様々な差別で見られます。今回はまさにその一つと感じられ、やはり吃音への差別は強いと思い知らされました。
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果たして本当に協会が問題の本質なのでしょうか。私も番組の街頭部分は見ましたが、芸人さんに対してものすごく変わった人が出てきたという前向きではないスタジオの反応がありました。その「変わった」の中に吃音の要素があるのは明らかです。また、補足しますと、
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そもそも吃音を持った人がテレビに出られない背景には、私含め吃音を持った人が吃音に対する無理解な社会で生きてきた中で人前で話す仕事を選ぶことが難しいという現実があり、そのようなマジョリティの問題が前提にある中で、仮に今回の一件でテレビから吃音を持った人がいなくなったとして、
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例えば、協会が「吃音者に対する偏見を助長する」と抗議したことに、「番組に出ていた吃音を持つ芸人さんが今後出られなくなる」「吃音に触れてはいけないという風潮になる」といった批判が相次いでいますが、
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自分でも訳のわからない話をしてしまうことが頻繁にあります。食べたくもないものを注文してしまったり、皆がおはようという中で一人こんにちはといったり違う話をしたり、色々な失敗があります。もちろんそれでやばいやつ変なやつみたいな扱いを受けることも多々あります。