【再掲・ご注意とご案内】千葉雅也先生は古谷経衡ではありません。名前の漢字が全部違うでしょ!
批判を覚悟で言いますが、小山田圭吾の音楽は二度と聞きません。「小山田いじめ問題?」自慰強制、全裸強制、食糞をこの国は「いじめ」と代称するのか。これは犯罪だ。私も酷いいじめを受けましたが、鬼畜の所業をした小山田に改悛の情があるなら被害者に時効であっても「お詫び金」を渡して土下座しろ
「小山田圭吾のいじめ告白は、当時のサブカルのノリから言って仕方がなかった」という抗弁は、「1930年代の時代的背景で、ナチがユダヤ人を迫害したのは仕方がなかった」と言っているのと同じです。加害の立場にある暴力は普遍的な悪だ。私は鬼畜小山田の音楽を二度と聴かないし、二度と顔を見たくない
「小山田圭吾のいじめ告白は、当時のサブカルのノリから言って仕方がなかった」という抗弁する人々に言いたい。それをナチから迫害されたユダヤ人にも言えますか。「事後の私刑は何も益が無いので不問に処せ」とユダヤ人に言えますか?こういうことを言う人が居ること自体を憂慮します。
加害と向き合えない小山田圭吾君へ──二度と君の音楽は聴きません。元いじめられっ子からの手紙 newsweekjapan.jp/furuya/2021/07…
小山田問題について書きました→加害と向き合えない小山田圭吾君へ──二度と君の音楽は聴きません。元いじめられっ子からの手紙 newsweekjapan.jp/furuya/2021/07…
鬼畜小山田のやった「いじめ」という名の暴行陵虐をナチスと混同するのは筋違い、という意見がある。いや、私の中では同一です。ホロコーストの外縁には、死に至らしめないまでも目を覆う暴行陵虐が無数に存在した。小山田を養護するのはナチの肯定であると思う。いじめに苦しんだ私はこれを曲げない。
ユダヤ人迫害、虐殺をコントにしてよいのか・悪いのかも分かれないような人間が「お笑い」界隈にウヨウヨいるという、日本の知的水準の低さに愕然。
小林賢太郎など一発でアウトだが、彼をめぐる反応が不謹慎ながら面白い。これで知識人か、あるいは単なる馬鹿だったのかがあぶり出されているような気がする。こういう時こそ常識と正気を保っていよう。
清廉潔白な人なんていないけど、強制全裸・強制自慰・食糞にホロコースト揶揄とか、通常の人間ならやらない。モノには程度というものがある。 twitter.com/japo_nesia/sta…
私は別に、政治的な意図で五輪を中止しろとか言っているのではありません。単に「五輪やるんだから!みんなで盛り上げようぜ!」という体育会的同調圧力と距離を取りたいだけ。そういうノリについていけないというだけ。感動は押し付けられるものでは無い。自分で発見するものだ。
日本人の人権感覚が世界から乖離している―。全くその通りだが、日本人の中にも普遍的な人権と教養のある人々は一定数いる。ただ彼らが社会や政治の枢機の中に少ないというだけである。これを私は「二重構造」と呼ぶ。この二重構造こそ、日本が解決しなければいけないゆがみである。
東京五輪に関する様々な醜聞やコロナが無かったとして、私は五輪を楽しめるのか?と突きつけられればやはりNOだ。それ以前の問題として「〇〇を楽しもうぜ!みんなで盛り上げようぜ!」という体育会的同調圧力が嫌いなだけなのだ。こういう人は多いと思う。「そういうノリが嫌いです」でOKだと思う。
東京五輪に反対する人の半分くらい(?)は、コロナ対策とか人権感覚に関する醜聞を抜きにして、「メディアや政府や国民が、或る”祭り”に対してわき目もふらず一直線に突き進んでそれを他者に強制する同調圧力」が嫌なんだと思う。私もこれです。こういうノリが嫌だ。だから私はハロウィンも大嫌いだ。
選手に罪はない、アスリートは頑張っている―、いやこれ本当にその通り。五輪やるならどうぞやってください。でもその頑張りとか感動を「五輪狂騒のノリに違和感を覚える人」にまで押し付けないでください。五輪反対派の感情根源ってこれですよね。私もまさにそう。貴方の感動は私の感動では無いから。
私の中学時代、生徒全員が強制参加で合唱コンクールというのがあり、授業が終わった後毎日全員で練習させられた。私はそれが馬鹿らしく「予は参加せぬ」と反発したら「帰れ」と言われたので許可されたと思い、本当に帰りました。翌日これが大問題に。こういう人間が一人ぐらい居ても良いではないか。
やっぱ私、考え方を変えます。五輪のスキャンダルがいろいろあったけど、いざ始まってみたら日本選手も金メダル取ってるし、もう日本代表を皆で応援してホスト国として五輪を盛り上げるしかない!!って、なわけねーじゃん。こういう変節する人物は一番信用できませんので全部チェックしてますからね。
無謀無策の代名詞、インパール作戦は、最初牟田口の部下が全員反対したのをご存知ですか?「これは無謀すぎる、絶対反対だと」でも、牟田口とその上司が反対派を追放していき、結局理論整然と反対していた将校も「やうるからには仕方がない」と賛成派に転んでいった。これ何かに似てませんか?何かと。
五輪反対と戦争は違うだろと。私も理解できます。でも、よく考えれば国家が主導するあらゆることへの無批判な熱狂の、その先にあるものは何でしょうか。時代が違えばそれは戦争である事も事実。太平洋戦争開戦直前には東条英機の家に「早くアメリカを叩きのめせ」と山のような手紙が届いたと言います。
私は、五輪をボイコットしようと思わないし、スポーツが嫌いな訳でもなく、まして選手が悪いと言っている訳でもない。ただ「もう始まった五輪なんだから、みんなで盛り上げようぜ!」という同調圧力と熱狂が嫌いなのだ。熱狂の行き着く先にあるのは大抵が破滅だからである。私は時代と距離を取りたい。
私からすればそれは適応では無くて「恭順」ですね。ヒトラー内閣が成立したんだから仕方がない。第二次大戦が始まったんだから仕方がない。ソ連と戦争が始まったんだから仕方がない。-それを「恭順」と呼びます。そしてその「恭順」が全体主義を下から支えたのです。話の規模は違いますが。 twitter.com/Lucifer7213843…
新聞紙面を見ると一面に「〇〇が金」で埋め尽くされている。ミャンマー(ビルマ)情勢はどうなった。原発再稼働の是非は。熱海の土石流についての予防策や今後の対策は。まるでどこかに吹き飛んでいる。社会の公器としてこの姿勢はいかがなものか。
「感動の押し付けはたくさんだ」運動嫌いの私が東京五輪に感じる"排除の空気" なぜスポーツだけ特別視されるのか #POL president.jp/articles/-/482…
私は自分ではない他者が金メダルを取ることに、何の感動を覚えるのかが全く分からない。これを突き詰めると、自分が関与できない他者が頑張ってやっていることすべてに感動を覚えられない、という事になるが、おおむね私の感覚はこの通りだ。たぶん私が変なのだろう。