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45)私が朝日新聞社を辞めた時に自省と自戒のために書いた「朝日ともあろうものが」という本は「そんなふうに過剰な期待をすべき朝日新聞はこの世界には存在しない」という読者への警告としてこのタイトルをつけた。それを理解した人はほとんどいなかった。
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44)いうも馬鹿馬鹿しい組織論の初歩だが、組織のパフォーマンスは
構成員個人の能力×組織の能力
の積である。どちらが極小になっても積は極小になる。
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43)「個人としては有能な記者もいるが、組織の力学が足を引っ張って云々」というような甘ったれた弁明にはもううんざりした。もう20年以上同じエクスキューズが出てくる。
そんなことは読者には関係がない。最終製品である記事、新聞がダメなら、それはもう生産者としておしまいなのだ。
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42)書き言葉を使ってマスメディアで読み手とコミュニケーションすることを生業とするなら、この程度のユーモアが使えることは職業的技量の範囲内である。それがもうできない。恐るべき劣化、知的退廃というほかないのだ。
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41)私が10代の時、朝日新聞の一面コラムに「自民党閣僚がゴルフの相談ばかりしている秘密録音テープを入手した」と言うエイプリルフール記事?が出た。馬鹿な自民党幹事長がマジメに抗議して面白くなったと思ったら翌日同じコラムが「あの冗談は冗談でしたとしか言えない」と書いてまたゲラゲラ笑った
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40)かつて朝日新聞社にいて、同期入社が社長をやっていると言う年齢の私が驚愕するのは、朝日新聞上層部がこの程度のユーモアすら使えない、無視するのが最良の戦略ということすら分からない、日本社会でもかなり愚鈍な部類の組織に成り果てたことだ。
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39)ついでにちょっと気を利かせるなら「朝日川柳などという極小マイナーな読者投稿欄にかくも多大なご注目をいただき、大変嬉しく思います。これを機会にますます川柳と言うユーモアが興隆することを願ってやみません」とコメントしてやればよい。自虐的かつ侮蔑的な隠微なユーモアで返せば良い。
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38)川柳を安倍晋三国葬肯定論者が批判してネットが大炎上、週刊誌に揶揄されても、私なら何もしない。何も言わない。ほっておく。クライシスでは「敵対者の望むものを決して与えない」が最良の戦略だからだ。
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37)チョウチンアンコウとかリュウグウノツカイとか水深200m以上の深海に住む魚を海面まで引き上げると、死んでしまう。深海と言う特殊世界でしか生きたことがないから、それ以外に出ると死んでしまう。日本の新聞記者はそれに似ている。
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36)読者の投稿川柳を批判されて「あれはユーモアですから」とすら言葉が出ない滑稽な有様を見て読者は「なぜこの人たちはかくも愚かなのか」と不思議だろう。しかし、朝日新聞上層部にいる人材の大半が、入社以来そうした特集空間でしか生きたことのない特殊生物なので、現実社会の感覚がないのだ。
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35)日本の新聞記者たちは「記者クラブ・取材先官僚・政治家・企業広報・新聞社内」という一般社会からすれば特殊空間としか言いようのない場所だけを移動して生きている特殊な生物であり、年数を重ねれば重ねるほど現実感覚を喪失していく。当人は現実を深く理解しているつもりなのでタチが悪い。
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34)読者は勝手に「新聞社や新聞記者は読者の声に耳を傾けてくれるものだ」と言うありもしないフィクションを現実と思い込んでいる。
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33)なぜ私が30を超えるツイートを書き連ねたかと言うと、新聞社の編集幹部たちは「読者は自分の記事や会社をどう思っているか」など知らない、無関心なままキャリアを過ごす、という事実を一般の人は知らないことに気づいたからだ。ここに壮大なループホールがある。
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32)何かに似ているなと思ったら、夫婦仲が冷えながら惰性で結婚だけは続けた中年夫が、初老になってから妻に離婚届を突きつけられて茫然自失、と言う情景にそっくりだ。妻は(=読者)夫(=新聞社)などとっくに見捨てていたのだ。
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31)早い話、朝日新聞の新聞記者たちはネット前時代は「読者は自分達や新聞をどう思っているのか」と言う現実を知らず、知ってみたらあまりに侮蔑と憎悪に満ちていて、衝撃のあまり自我が崩壊したのが現況である。
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29)新聞の書いた記事が、出版後に読者に検証され、捏造や誤謬を証明された事件の最初が、1989年の沖縄サンゴ事件だった。そのころはまだネットは黎明期。しかし遅くともWindows95が出た1995年にはネットが新聞を検証する時代が来たことは自明だった。25年以上、新聞社は何もせず時計が止まっている。
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28)今となっては信じられないが、1990年代まで化粧品は再販制度の保護産業で、小売店は値下げできなかった。それが撤廃されたからマツキヨやドラッグパパスが展開し、消費者にとっては価格が下がり、利便性が上がったのである。
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27)こうした政府の保護産業は、自由競争の下では生き残れないのに政府保護で延命し、消費者に質は悪くて価格の高い商品を送り続ける。サッチャー政権以前のイギリスの石炭・鉄鋼と似ている。
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26)追加。新聞は「再版制度」と言う制度によって小売店の価格決定権すら奪っている。これも自由競争妨害のお目こぼしの上に立脚している。
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25)ビッグピクチャーで言えば、日本の新聞は記者クラブ制度で
・ニュースという商品の原料供給の優先または独占
・競争への新規参入の妨害
=自由競争の妨害=本来なら独占禁止法違反のカルテル
さらにテレビは
・電波法免許
と言う政府の保護下で延命している「保護産業」に過ぎない。
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24)ネット前時代とネット後時代を比べて、よく朝日新聞社の社員が言うのは「まさか新聞がこうなるとは思わなかった」である。これなどは彼らの現実感覚の欠如を雄弁に語る言葉だ。そんな事態は1990年代から始まっていた。彼らがひたすら「都合の悪い現実」を見て見ぬ振りをしたというだけの話である。
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23)ソ連やナチスドイツの収容所のような生死をかけた過酷な環境で起きることは「自分が生き延びるためには仲間でも裏切る、殺す、食べ物や毛布を奪う」である。現在の朝日新聞社内の様子を聞いていると、悪寒がするほど似ている。
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22) そのネット前時代の「声なき多数」がネットとSNSで声を持ってみたら、新聞記者たちが生きていたエアコンの効いた快適な環境があっという間にシベリアの政治犯収容所みたいになった。
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21)ネット前時代、新聞記者たちの考える「読者の反応」とは、取材先の官僚、政治家、記者クラブ他社、企業、PR会社、たまにスポンサーなどとほぼイコールだった。「声なき多数」など意識に上らなかった。信じられないかもしれないが本当だ。私の実感も2003年の拙著「朝日ともあろうものが」に書いた。
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20)話を戻すと、朝日新聞社の幹部たちは受験勉強勝者上がり揃いなので、自己愛に背く読者の声に耐えられない。対応もわからない。しかしそれは甘っちょろけた話だ。かつてネット前時代は自分が見て見ぬ振りをしていた現実がSNSなどでイヤでも目に飛び込んで来るようになったに過ぎない。