国末憲人 Kunisue Norito(@KunisueNorito)さんの人気ツイート(新しい順)

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この地域の樹木は主に松で、少し白樺ですが、イワナフランカの東端に珍しく樫の大木があります。ロシア軍撤退の4月1日、この木の下で煙が上がるのを近所の人が見ました。その根元に黒こげの6人の遺体。シドレンコ夫妻と、通りの1番地シャピロ家などの4人でした。リダの腕は切断されていました。
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両親は最後の電話の日に殺害されたと、タチアナは信じています。母が使う日めくりカレンダーが3月22日を最後にめくられていなかったからです。
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避難したタチアナは、母リダと3日に一度携帯で会話を続けていました、1回約20秒。最初気強かった母は次第に弱音を吐くようになりました。最後の電話は3月22日。涙を見せたことのない母が、3分間ほどの通話の間じゅう泣き続けたといいます。 「後から思うと、母は別れを告げていたのです」
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シドレンコ夫妻は「ロシア軍でも、対話をすれば殺されはしない」と信じていたといいます。体の不自由な隣家のおばあさんを1人にさせられないこと、6匹のネコの世話もあったことで、退避せず残りました。「近所のお年寄りを放っておけない」というのは、残留した人の多くが挙げる理由です。
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リダ・シドレンコは楽天家で世話好き。近所の独り暮らしのお年寄りらに料理を配るなど、慈善活動に勤しむ人でした。駐留したロシア軍に「なぜ来たのか」「いつまでいるつもりか」などと問いただしたといいます。母語はウクライナ語で、ロシア語は理解するが話さなかったそうです。
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セルゲイ・シドレンコはウクライナ民主化運動の熱心な活動家でした。親ロシア派政権の不正を市民が追及した2004年のオレンジ革命や、親ロ派政権が倒れた14年のマイダン革命で、抗議の先頭に立っていました。近所でも、選挙の際は投票を呼びかけるなど、活発な活動を続ける人として知られていました。
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ブチャのイワナフランカ通り1番地と同じ区画を形成する路地マクシマリザニチャ通りです。この3番地に暮らしていたシドレンコ一家のうち、父セルゲイ(65)と母リダ(62)が殺害されました。娘のタチアナ・ナウモワ夫妻と子ども、タチアナの兄らは避難して生き延びました。
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逆に後半の部隊の兵士らは、グレゴリーを裏の畑につれていって「娘を出せ」とすごみました。うちに娘はいないと答えると怒り狂い、「早く殺して次に行こう」などと言いながら銃を乱射したそうです。殺されるかと思ったものの、威嚇に終わりました。手にするのは、自宅に飛んできたロ軍装甲車両の破片。
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住民の話を総合すると、3月12日前後まで駐留した最初の部隊はチェチェンからで、穏健だったといいます。交代してそれ以降駐留した部隊は東洋系の指揮官が率い、横柄で暴力的。犠牲者の多くは後半に殺害されたと思われます。
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砲撃の中を避難したニツェヴィチ家の車は、途中で歩いて避難する人を順番に乗せ、車内は満杯に。カーゴトレーラーにも人が乗ってあふれました。一見ピクニックにいくかのようですが、命からがらの逃避です。白い旗は、ロシア軍から「撃たれないために掲げよ」と指示されたもの。エドワルドの提供写真。
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イワナフランカの続き。4番地Aパトキウスカ家の隣、4番地に2軒ある家のエドワルド・ニツェヴィチ(右、右の家)とアレクサンドル・バヤールスキー(左、左の家)。ニツェヴィチ家の6人は、4番地Aのもう一軒の家ヤコヴィエンコ家の3人とともに、2台の車で3月10日に避難しました。
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ひとまず拙稿です。 digital.asahi.com/articles/ASQ76…
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パトキウスカ家はこうして生き延びましたが、多くの住民が命を落としました。この地区で砲撃や銃撃に巻き込まれて死亡した人は1人もいません。全員が、戦闘とは無関係に、ロシア軍に虐殺されたのです。彼らの運命はまたそのうち。to be continued.
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イワナフランカ通りの線路を越えた延長はヤブランスカ通り。ロシア軍に撃たれた遺体が路上に放置されて「死の通り」と呼ばれた場所です。一家がそのまままっすぐ行っていたら、果たして無事だったか。右に折れた一家は、曲折を経て避難のバスに乗り、ブチャを離れることができました。
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イワナフランカ通りは線路で行き止まりになり、踏切もありませんが、住民たちがいつも通る小道ができていました。ロシア兵はパトキウスカ家に線路を越えて真っすぐ行くように伝え、「グッドラック」と言ったといいます。ただ、真っ直ぐ進むと路上に遺体が見えたため、慌てて曲がったとのこと。
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パトキウスカ家には砲撃戦がやや収まった3月9日夕、ロシア兵が来て「生き残りたいか」と問いかけ、うなずくと「10分以内に出ろ」と指示されました。着替えも用意できず、1歳の女の子サーシャの服だけ持って、家族5人で近くの線路を越え、徒歩で退避。振り返るのが怖く、前だけ見て歩いたそうです。
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パトキウスカ家の地下蔵。このあたりの家にはどこにも食料をため込む地下蔵がありますが、ロシア軍の占領期間中は避難先となりました。退避する以前は、普段この中で暮らし、早朝に料理などの時だけ外に出る生活だったそうです。
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イワナフランカ通り4番地Aに暮らすパトキウスカ家のタチアナと父ワシリー。3月9日に一家5人で避難しました。自宅はその後、ロシア軍に占拠され、破壊されました
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同じ通りの4月の風景。
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キーウ近郊ブチャの街外れにイワナフランカという通りがあります。写真手前に陣取ったロシア軍によって、左手の1番地に連なる5軒11人が虐殺され、一方で右手の2番地以降の住民は生き延びました。ここ1カ月ほど夕方ここに通い、遺族や生存者とお茶を飲みつつ語り合った記録を、少しずつ紹介します。
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キーウ近郊ブチャは近年発展した高級住宅街ですが、その端に農村の面影を残すイワナフランカ通りがあります。1番地の区画に残った5世帯11人全員がロシア軍に惨殺される一方、2番地以降の住民は生き延びました。何が明暗を分けたか。現地を歩いた拙稿です。 asahi.com/articles/ASQ76… #ウクライナ情勢
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ボリス・ジョンソン、辞めるのは保守党党首。首相は、秋の党大会で新任が決まるまで自らが務める。 bbc.com/news/uk-politi…
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しかし、ウクライナ国内でボリスは相変わらずの大人気。90%の支持を得て、ゼレンスキーに続いて政治家として2番目、外国首脳としては1番。 dailymail.co.uk/news/article-1…
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ボリスいよいよ時間の問題か。子飼いの内相パテルにも裏切られ、閣外相レベルも大量離散。国外(特にウクライナ)では依然人気が高いものの、「彼では、総選挙は戦えない」という国内の現実的総スカンに、耐えきれそうにない。 bbc.com/news/uk-politi…
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ウクライナ戦況報告。リシチャンスクが陥落し、ルハンスク州が事実上ロシア軍の手に落ちました。ドンバス全土掌握を視野にするロ軍は、ドネツク州への攻撃も強めています。ただ、この後退がウクライナにとって決定的だとも一概には言えないようです。 asahi.com/articles/ASQ74… #ウクライナ情勢