米津玄師 ハチ(@hachi_08)さんの人気ツイート(古い順)

今まで幸せであるために不幸でいようとする節があったのだけど、わざわざ自分から不幸を受け取りに行くのはアホだなと思うようになる。いくら身を削って痛い目に遭おうと、それがほしいと望むのなら結局幸せと変わりない。楽しいことをしていれば必ず不幸は訪れるのだからそれで十分じゃないか。
飛行機にて、僕の前に座っていた3,4歳くらいの男の子が、椅子の上に立ち、僕の方をちらちら見てきたので、小さく手をふってみたら嬉しそうな顔をした。嬉しそうにされると悲しくなる。いつか大きな不幸に見舞われたとき、この子は酷く泣くのだろう。
いいともでマトリョシカ流れたの?
すげーリプライきてるけど、僕としては許可があったかどうかはわりとどうでもいいです。制作者としてはよくないんだろうけど。結果として面白ければそれで儲けもんだし、面白くなければそれはそれで不快ですが、糾弾しようとも思いません。
「本当の自分」なんてのは、自分で決めるものではないでしょう。あなたがどれだけ何かを隠していようと、回りの人間は「隠しているあなた」を本当として付き合っている。あなたが思っている「本当の自分」なんてものはどこにもいない。それを認めないのならそれでもいいけど、あなたはずっと独りだよ。
人に生かされていることを思い出すべきだ。誰かまわりに人がいなければ生きていけない。心象の穴ぼっこを、目の届かないところにあるじめじめした憂いを、「本当の自分」と考えて、「皆自分のことを知らないんだ」なんて嘆くな。あなたのことを知っているのは、あなたじゃない誰かだ。
また絵を描きました。「頭痛」 twitpic.com/74y69m
もう一度貼っておこう。絵を描きました。「頭痛」 twitpic.com/74y69m
彼の有名な都市ヨハネスブルグのことを調べていて、「ヨハネスブルグ日本人学校」のHPを見ていたんだけど、スクールカレンダーに「1学期 第1回避難訓練(バスジャック訓練)」とか書いてあって戦後最大級の二度見をかました。
自分が駄目な原因を他人に求めだしたら危ない。それが虚のない真実だとしても、自身の人格形成における原因を取り除くことなんて今更できないので、ただひたすら精進するしかない。「駄目になったのはあいつの所為だ」と決めつけて、それを免罪符に被害者を気取るのは楽だが、そこから先は何もない。
駄目な人間なりに、駄目な人間にしかできない素敵なことがあると僕は思うので、あほみたいに安っぽい被害者気取ってないで、とりあえずやれることをやるべきだ。
自分の中にどれだけ沢山の情操があったとしても、それが自分の中で完結され、湧いて出ることなく、自分以外に観測されないのであれば、始めからありえないも同然だと思っている。何も言わず何も行わずいるうちは、死んでいるようなものだ。
11月27日にマトリョシカとパンダヒーローがJOYSOUNDでカラオケ配信されます。よろしく。
これは・・・。めちゃくちゃ嬉しい。 「第二回ボカロ人気投票」の結果が発表されていたらしい件 vocaloid.blog120.fc2.com/blog-entry-100…
サブアカ(twitter.com/nekoya_08)をちょっと改造しました。勝手に呟くようになりました。
ある種において自分より頭が回り経験値も多い人間なんて腐るほどいて、そういう人たちから見れば自分はただの愚か者でしかないんだけど、だからといって「もうちょっと賢くなってから」とかのび太みたいなこと考えちゃうととたんに何もできなくなってしまう。
極端に自由だとどこを見て進めばいいのかわからなくなり、自由がなさ過ぎると一歩も動けない。自らに課せられた義務の隙間に自由が生まれるのであって、授業中やバイト先のレジの前で「ああ帰りてーなー」と思っているようなときが、丁度いい具合の自由なのかもしれない。
落ち込んでいる人を励ますときに肯定的な言葉ばかりを投げかけても意味がない。省みるべき部分を無視して「そのままでいいんだよ」みたいな優しい言葉をかけるのは、結局一時的な痛み止めでしかなく、根本の治療にはならない。相手をとことんまで傷つける覚悟がなければ、優しさは嘘にしかならない。
人になにか言われて好きなことが好きじゃなくなるようなら、はじめからそんなに好きじゃなかったんだろ。あほらしい、すぐにやめちまえ。
近日中に僕の曲がいろいろとカラオケ配信されるので、ブログにまとめを掲載しました。 yakari.blog17.fc2.com/blog-entry-378…
安穏な毎日っていうのは、度が過ぎると毒だ。生活の中に垣間見える恐ろしさはいつまで経っても尽きないが、それを忘れて安穏だと思えることがまた恐ろしい。生ごみにシーツを一枚被せて部屋の隅に放置しているような毎日。いつか何も見えなくなってしまう。
いろんなところに「素の自分信仰」みたいなものがあって、自分に対して嘘をつくのは悪であるかのような風潮が見受けられるけれど、誰だって「あんな人になりたい」と目標を持ち、それに及ばない自分に嘘をついて生きている。親の一挙手一投足を真似ていたころから、素の自分なんてのはいないのでは。
嘘というものに対して過剰に攻撃的になる人たちは、自分は嘘などつかない誉れ高い清き生き物だとでも思っているのか。弱みや汚れを隠すという行為を画一的にしか見られないからそういう思考になる。
僕は努力というものが大嫌いで、嫌な気分になったらすぐにやめてしまうし、責任も放棄してしまう。我ながら軟弱だと思うけれど、それでもやめていられないことがいくつかあって、そういうものの為に生きていくべきなんだろうなあと常々思う。
生まれて間もない幼少のころの原体験っていうのが、人生において一番衝撃的なものであり、そのときについた傷がずっと癒えずに死ぬまで残る。その傷が明言できない質料を生み、人の心像になる。目が開き、生まれて初めてあたりを見渡したときの衝撃に勝るものはない。