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慶喜が一橋屋形を相続し、御礼言上のため登城して家慶に拝謁するしたのち、慶喜は大奥の奥女中たちに囲まれて質問攻めにあった。曰く「一橋様の御母君は御名を何と仰せられ候や」。嘲笑気味だったので、慶喜は「予は有栖川宮の孫なるぞ」と端然と答えたので、奥女中たちは平伏したという。#青天を衝け
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渋沢のことはあまり詳しくないので、今回は慶喜に絞って。慶喜の養親となった将軍家慶の病床に慶喜が籠に入ったカナリアを持参したとき、以前頂戴した旨を述べていたが、これは史実。慶喜が一橋屋形相続のとき、大奥で家慶に拝謁して、ヤマガラ・ウグイスとともに拝領したもの。#青天を衝け
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今夜の大河「青天を衝け」第3回。このドラマは脚本と時代考証がかなりしっかりしている気がする。また渋沢栄一と徳川慶喜のストーリーを並列的に描いているのも効果的で、いつか両者が交わるのだろうと予感させる。今回、平岡円四郎が本格的に登場した。渋沢と慶喜をつなぐキーパーソン。#青天を衝け
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今夜の大河「青天を衝け」第3回。一橋慶喜が自分は将軍になれないし、興味もないと述べて、父斉昭を落胆させた件。将軍家慶が慶喜を気に入っていたのはたしかで、たびたび一橋屋形を訪れ、しかも長時間滞在したという。また鶴御成供奉というイベントがある。#青天を衝け
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美賀君の追加。ドラマで慶喜が徳信院と一緒に謡いをしていたところに美賀君が乱入してくる場面があったが、これは実話のようです。松平慶永の生母青松院によれば、「(謡いの)その座にて(美賀君が)ただちに御声を発し、刑部卿様(慶喜)をおこづき、御立腹あらせられし」とのこと。#青天を衝け
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本日の大河「青天を衝け」第9回。謹慎している慶喜に、平岡円四郎が甲府勤番に異動する旨を知らせにきた場面。甲府勤番とは要するに甲府勝手小普請、いわゆる小普請組だから、左遷中の左遷。これも安政の大獄の余波だろう。慶喜が円四郎に大首するなとか、体を湿らせるなと忠告した件。#青天を衝け
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本日の大河「青天を衝け」。ドラマでは水戸斉昭の永蟄居とそれに激高する水戸家家臣たちからいきなり桜田門外の変へと飛んだが、その間に変の原因となった重要事件が省略された。「戊午の密勅」降下である。安政5年(1858)8月8日に孝明天皇から水戸藩に与えた秘密の勅諚である。#青天を衝け
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補足。井伊直弼は大老であり、事実上、当時の日本政府首班だったため、桜田門外の変は世界のニュースとなって流れた。ニューヨークタイムズにも記事が掲載されたが、幕府がその死を隠して負傷しただけだとリリースしたため、記事は暗殺計画は未遂に終わったと誤報する結果になった。#青天を衝け
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」第10回。老中安藤信正が襲撃された坂下門外の変が描かれました。桜田門外の変はいつも詳しく描かれますが、坂下門外の変は少し触れられたらいいほうで、ナレーションだけで終わったりすることも。今回はその背景も含めて、比較的詳しく描かれました。#青天を衝け
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大河ドラマ「青天を衝け」。このドラマでは尾高兄弟、平岡円四郎、大橋訥庵、老中安藤信正、坂下門外の変など、これまでの大河ドラマであまり光が当たらなかった人物や事件を取り上げていて、別の視角から幕末維新史の流れを理解することができる。なかなか面白いドラマになりそうな予感。#青天を衝け
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折田要蔵は湊川神社の初代宮司。王政復古政変に従軍し、貴重な記録を残している。禁裏御所内の様子を活写している。
#青天を衝け
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」。薩摩藩の豚肉料理が出ました。当時は仏教の殺生禁断の教えが浸透していたので肉食は一般に敬遠されていたが、薩摩藩は例外で、よく豚肉が食べられた。江戸の上屋敷(芝藩邸)跡からは発掘調査で大量の豚の骨が出土しているほど。
#青天を衝け
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何より有名なのは渋沢の主君、一橋慶喜だ。何せあだ名が「豚一殿」(豚好きの一橋殿)だから。小松帯刀とのやりとりが有名。ちょうどドラマの進行時点の頃、慶喜が何度も豚肉を所望するので、小松は手持ちがなくなり、大名はわがままで困ったものだと嘆き、大久保一蔵に提供を頼んだほど。#青天を衝け
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ドラマであった西郷吉之助が渋沢篤大夫に豚鍋を振る舞ったのは事実。『渋沢栄一伝記資料一』に出てくる。西郷は同僚の吉井幸輔にも「豚汁ができたので冷めないうちに食べに来て下さい」という手紙あり。島津斉彬が藩主として初めてお国入りしたときも豚汁と炒豚の賄い料理が出たほど。#青天を衝け
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小松帯刀は「琉球豚」と書いており、琉球から薩摩に運ばれた豚を肥育したものだろう。当時は冷蔵庫がないから、塩漬けや味噌漬けで保存している。なお、慶喜の豚好きは父斉昭からの薫陶。斉昭は島津斉彬から豚肉を贈られていたから、もともとは薩摩からの豚肉を食べていたものと。#青天を衝け
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」。平岡円四郎が刺客に襲撃されて最期を遂げました。平岡は暗殺直前、急激な出世を遂げています。小普請組支配、勘定評定所留役当分助という閑職から一橋家の用人へと栄転。文久4年(1864)2月には側用人兼番頭、5月15日には家老竝(家老並)となります。#青天を衝け
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慶喜を家康にたとえたのは木戸孝允。ドラマから3年ほどのち。土佐藩士の土方久元『回天実記』慶応3年3月21日条に「一橋の胆略決して侮るべからず、若し今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し」と述べる。木戸の慶喜への非常な警戒心。#青天を衝け
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」。非業の最期を遂げる前、平岡円四郎が慶喜に「殿は東照大権現の再来」と真情を吐露していた。円四郎がそう言ったという史料があるか知らないが、慶喜が徳川家康に喩えられていたのはたしか。そういえば、今日は北大路家康は登場しなかったような。#青天を衝け
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昨日の大河ドラマ「青天を衝け」。暗殺された平岡円四郎の変わり果てた姿と対面した慶喜が珍しく感情を露わにして、その遺骸に語りかけた言葉がよく聞き取れなかったが、「円四郎よ、尽未来際と申したではないか」と言ってるらしい。「尽未来際」(じんみらいさい)とは耳慣れぬ言葉。
#青天を衝け
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思わず辞書を引いたが、「尽未来際」は未来永劫という意味らしい。さすが学のある慶喜というべきか。この台詞に出典があるのかわからないが、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』では、1931年(昭和6)、逝去した渋沢の追悼会の弔辞で「子爵(渋沢)の尊霊は尽未来際不朽不滅」とあり。#青天を衝け
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先日、暗殺された平岡円四郎には2人の息子がいたんだね。『雨夜譚会談話筆記』にある昭和になってからの渋沢の回想によれば、平岡には息子が2人あり、総領は道具屋、次男は信州で裁判官だったとか。明治20年頃、本所の何とかという法華宗の寺で平岡の法事をしたときに会ったようだ。#青天を衝け
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長崎の五島列島沖で発見された世界最大級の巨大サンゴ。放射性炭素測定で、成立というか誕生は1519年という結果が出た。600歳である。中心部はもっと古いかもしれない。
1519年といえば、伊勢宗瑞(俗に北条早雲)が没した年だ。
tokyo-np.co.jp/article/108752
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」。今回は禁門の変(元治甲子戦争)が中心でした。そのなかでも、一橋慶喜と薩摩藩の西郷吉之助の冷戦とその後の対立を暗示させるような場面が描かれました。ドラマでは乗馬姿の慶喜でしたが、実際はもっと劇的だったと思います。#青天を衝け
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本日の大河ドラマ「青天を衝け」。御所内の長州派の計略は有栖川宮らがまず知恩院への遷幸を勧め、天皇が禁裏六門を出たところで、鳳輦を鳥取藩士らが奪い取り、これに岡山藩も加担して、鳳輦をさらに宇治か奈良へと遷幸させ、天皇を長州の勢力下に置こうという策だったともいわれる。#青天を衝け
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このとき慶喜に同行していたのが薩摩藩家老の小松帯刀。その様子を国許に知らせている。「(一橋公は)紫宸殿へイタグラメ(胡座)で有栖川宮を初め長州びいきの暴論公家衆多人数とご対座、一橋公は一人にて舌戦、ついにことごとく説破され、公家衆閉口の由」と慶喜の弁舌が冴え渡った。#青天を衝け