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「青天を衝け」第2回。とりあえず一橋慶喜について。弘化4年(1847)9月、松平七郎麿は一橋屋形を相続して徳川姓になった。先代一橋昌丸死去のため喪に服していたが、10月1日、江戸城に登城して将軍家慶に拝謁。一橋相続、10万石拝領を謝す。どう5日にも登城し大奥で家慶と対面。#青天を衝け
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今夜の大河「青天を衝け」。高島秋帆が罪を得て岡部藩に預けられたのが弘化3年(1846)。松平七郎麿が一橋を相続したのが翌4年(1847)。渋沢少年が7歳から8歳のとき。史実をうまく取り入れて、しかも整合性が高かった。よきかな。#青天を衝け
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今夜の「青天を衝け」。渋沢少年と徳川七郎麿の成長を並行的に描いてなかなか面白かったです。今後の展開が楽しみ。また徳丸が原での砲術演習が好評を博した高崎秋帆が洋学者に敵意を燃やす「妖怪」こと鳥居耀蔵に陥れられて岡部藩に預けられたのも史実。うまく結びつけていましたね。#青天を衝け
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2月7日、大河ドラマ「麒麟がくる」最終回が終了した直後の21:00から、光秀・秀満ゆかりの福知山市でこんなイベントが開催されます。私も出演します。視聴者のコメントも募集しているそうです。#麒麟がくる
tourism.travelnews.co.jp/kansai/2021020…
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でも、信長がすでに天正元年(1573)に譲位を申し入れたところ、天皇は「朝家再興のとき」と喜んでいるほど。天皇の生前譲位は中世の常道。信長の申し入れは喜ぶべきことであっても、怒ることではない。今更そんなストーリーでは周回遅れな筋立てで、半世紀は逆行している。結末が怖い。#麒麟がくる
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番組出演のお知らせ。1月20日(水)午後8時からNHKBSプレミアム「英雄たちの選択」に出演します。テーマは「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」。細川藤孝の知られざる一面にも触れます。nhk.jp/p/heroes/ts/2Q…
#細川藤孝 #麒麟がくる
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「国盗り物語」の頃からこの場面には不満で、焼き討ち後、光秀への恩賞が一番だった史実と整合しないと違和感がありました。ところが、今回は戦国系の大河ドラマ史上で画期的な描き方だったと思います。叡山焼き打ちの先兵に立つ修羅のごとき光秀――それこそが光秀の実像に近いと考えます。#麒麟がくる
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昨夜の「麒麟」。山門焼き討ちで光秀がその軍事行動の先頭に立ったことです。従来の大河では、この場面で常識的な文化人である光秀が粗暴な信長に対して、叡山は国家鎮護の霊峰だからという理由で諫言し、怒った信長が光秀を折檻するという、ステレオタイプなパターンばかりでした。#麒麟がくる
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平山優さんも指摘しているが、「忍び」用語には地域性があるという。「かまり」はどうも東国の言葉のようである。数万語の薩摩弁を集成した方言辞典『鹿児島方言大辞典』があるが、これにも「かまり」は立項されていない。やはり、鹿児島ではなじみのない言葉だったか。
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これはドキュメント風だが、やはり出典を書いてくれていない。ほかにもあるかもしれないが、とりあえず気づいた点のみ。戦国島津氏の基本史料として『鹿児島県史料 旧記雑録』があるが、これでも関ヶ原合戦の部分はもちろん、他の合戦の記事にも「捨てがまり」は見ていない。
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江戸後期の軍学者徳田邕興が『島津家御旧制軍法巻鈔』で戦国島津氏の軍法を詳細に紹介、分析している。そのなかに「釣り野伏」の解説はあるが、「捨てがまり」は出てこない。
現状、島津氏関係の史料で「捨てがまり」は見つけられないでいる。現時点ではその実在は確認できないというのが一応の結論。
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薩摩島津氏の「捨てがまり」が話題になっている。この言葉は日本国語大辞典にも立項されている。
「戦場で、軍勢が退却する時、一部の兵を伏兵として残しておき、近づいて来る敵兵を遠矢や鉄砲で狙撃させるもの」という意味。
この辞典は出典も記されているが、軍記物は『甲陽軍鑑』だけである。
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司馬氏がどこから引いてきたかは小説なので不詳。この小説は1960年代『週刊サンケイ』に連載された。目に付く限りではこれが初見か。次いで立石定夫氏『関ヶ原決戦記』(新人物往来社、1984年)に「島津の軍は終始乱戦の中にあった。島津はここでステガマリ戦法に出た。薩摩特有の戦法である」
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あとは、江戸期の滑稽本や誹風柳多留などに比喩的に用いられているだけである。管見の限り、「捨てがまり」を島津氏の軍法と結びつけたのは、司馬遼太郎の小説『関ヶ原』ではないかと思う。島津の退き口の場面で「島津の退却戦法に、座禅陣という特殊なものがある。ステガマリ、ともよばれた」
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亡くなった三浦春馬さんの公開予定作「天外者(てんがらもん)」は五代様こと五代友厚を主役にした映画とのこと。ご本人の供養の意味でもぜひ公開してほしいな。
ちなみに、「天外者」は鹿児島弁で「利口者」という意味。漢字だと「手柄者」だとばかり思っていたが。hochi.news/articles/20200…
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大河「秀吉」。沢口靖子演じる北政所。
名前の読み方もここ半世紀で二転三転。
ねね→おね→ねね
昔は「ねね」、大河「秀吉」の前後は「おね」。
そして今はまた先祖返りして「ねね」。
近年、堀新さんが「ねね」だと実証した。
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ダックスフントは古代エジプトにもいたから、室町日本に渡航してきていてもおかしくない。
関ヶ原で対決した島津義弘と福島正則の猛将同士。関ヶ原戦後、義弘は正則に呂宋犬2頭(黒ブチと白ブチ)をプレゼント。正則に徳川幕府との橋渡しを期待か? そんな犬話がてんこ盛りheibonsha.co.jp/book/b509777.h…
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室町日本にダックスフントがいた。
京都相国寺の塔頭鹿苑院にあった蔭凉軒の公用日記『 蔭凉軒日録』によれば、長享2年(1488)、管領細川政元が連れてきた犬は「天竺犬」と呼ばれて変わっていた。名前から明らかに舶来の犬。「黒毛、嘴細、尾多、足短、腹大」だったと。該当するのはダックスフント。
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本日は明智光秀の命日(新暦)。正確には深夜子の刻を回ってからのような気もします(当時は夜が明けないと日が変わらない)。ともあれ、光秀の最期は悲惨ですね。まず最後の場所は、公家や寺社の伝聞史料では「醍醐の辺」「勧修寺在所」「山階(やましな)」「山科藪中」とさまざま。#麒麟がくる
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秀吉の最後の城、京都新城の石垣や堀跡が仙洞御所内から発見されて話題になっている。秀吉が造営したそのひとつ前の城は木幡山伏見城だが、その間に秀吉がもうひとつ居館を洛中に造営していることはあまり知られていないと思われる。しかも、島津氏が関わっている可能性も。
kyoto-np.co.jp/articles/-/243…
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竹千代の父松平広忠が今川義元に督励されて岡崎に帰る途中、織田方の刺客に殺害される場面。その死には病死説、一揆による襲撃説、近臣の岩松八弥に岡崎城内での殺害説など諸説あり。病死説は徳川方の史料であまり信用できないとされたが見直す動きもあり。写真は岡崎大樹寺の広忠墓。 #麒麟がくる
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今夜の「麒麟」。信長が本格登場で、帰蝶に怪物の話を聞かせる場面。これは信長伝記の『信長公記』首巻にあり。尾張国春日井郡比良の東にあまが池があり、地元では「蛇池(じゃいけ)」と呼ばれていた。ある年正月中旬、安食村の又左衛門(ドラマの通り)が目撃した。写真は現在の蛇池。 #麒麟がくる
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話題になっているアマビエ。どなたかも紹介してたけど、徳川家康の家来、松平家忠の『家忠日記』にも似たような絵が。天正9年(1581)4月条。家忠は人魚だという。口が少し違うけど、ウロコとヒレは似ている。家忠は日記の余白にいろんなイラスト描いていることでも知られる。
#アマビエ