りゃんぽうす✨(@akira2202_)さんの人気ツイート(新しい順)

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3月11日、詳細不明の短い電話の中で、編集者から「産院空爆で生き残った女性の存在を証明するために、その女性たちを探してもらえないか」という依頼があった。 この映像は、ロシア政府の反発を招くほどの威力があるに違いないと思った。 (続↓
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この頃、マリウポリではウクライナのラジオやテレビの電波が全く入ってこなかった。 唯一受信できたラジオでは「ウクライナ人がマリウポリを人質にしている・ビルを銃撃している・化学兵器を開発している」といったロシアのプロパガンダを放送していた。 (続↓
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一方、マリウポリでは、戦況の最新情報を求める人が殺到していた。多くの人が私のところに来て「私が生きていることを外の家族に知らせるために、私を撮影してください」と言ってきた。 (続↓
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ロンドンのロシア大使館は、AP通信の写真を偽物とし、妊婦は女優だとする2つのツイートを発信した。 国連安全保障理事会では、ロシア大使が写真のコピーを掲げ、産科病院への攻撃について嘘を繰り返した。 (続↓
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「これは戦争の行方を変えることになる」と彼は言った。 彼は私たちを電源とインターネットに接続できる場所へ連れていってくれた 私たちは、たくさんの死者や死んだ子どもたちを記録していた。 私はなぜ彼がこれ以上死者を出しても何かが変わると考えるのか理解できなかった。 私は間違っていた (続↓
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暗闇の中、携帯電話を3台並べて画像を送り、動画ファイルを3つに分割してスピードアップしたが、門限を大幅に超えて何時間もかかった。 砲撃は続いていたが、護衛の警官たちはじっと待ってくれていた。 そして、マリウポリと外の世界とのつながりは、またもや断たれた。 (続↓
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私たちは死んだ金魚でいっぱいになった水槽のあるホテルの地下室に戻った。 孤立した私たちは、私たちの活動を貶めようとするロシアの偽情報作戦が拡大していることなど、何も知らないでいた。 (続↓
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私たちのバッテリーはほとんど消耗していて、画像を送信するための回線もなかった。 夜間外出禁止令が出るまであと数分。病院爆破のニュースをどう伝えるか、警察官が私たちの話を聞いていた。 (続↓
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この時までに、私は病院での死、路上の死体、集団墓地に押し込まれた何十体もの死体を目撃している。 あまりに多くの死を目の当たりにしたので、ほとんど受け止めずに撮影していた。 (続↓
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3月9日、2機の空爆により、バンの窓を覆っていたビニールがズタズタに破れた。 火の玉を見たのは、内耳、皮膚、顔に痛みが走るほんの一瞬前だった。 産科病院から煙が立ち昇るのを見た。 私たちが到着したとき、救急隊員はまだ血まみれの妊婦を瓦礫から引きずり出していた。 (続↓
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私たちは急いで病院に戻った。 すると20分もしないうちに、ショッピングカートに乗せられた負傷者が続々と運ばれてきた 数日間、外界とのつながりは衛星電話だけだった。その電話が通じるのは砲撃跡のすぐそばの開けた場所だけだった 私は座って、姿勢を小さくして通信の接続を捕らえようとした (続↓
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みんな「いつ戦争が終わるか教えてくれ」と言っていた。 私はそれに何も答えられなかった。 毎日毎日、ウクライナ軍が包囲網を破りに来るという噂が流れた。 しかし、誰も来なかった。 (続↓
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そして、また砲弾が隣のマンションに命中し、ものすごい音を立てた。 私は角の後ろに身を縮め、隠れた。 その時、10代の若者が電子機器を積んだ事務椅子を転がしながら通り過ぎた。「私の友達もそこにいて、砲弾は僕たちの10メートル先に落ちたんだ。どうなったかわからない」と彼は言った。(続↓
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店の屋根で砲弾が爆発し、私は外の地面に投げ出された。私は緊張して2発目の被弾を待ちつつ、それを記録するためのカメラを付けていなかった自分を100回呪った。 (続↓
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港側のスーパーが略奪されていたので、砲撃や機関銃射撃を受けながらそちらに向かった。 そこでは何十人もの人が走り、電子機器や食料、衣料を積んだショッピングカートを押していた。 (続↓
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しかし、3月3日には電波が途絶えた。私たちは病院の7階の窓からビデオを送ろうとした。 そこから、中流階級の街だったマリウポリがバラバラになっていくのを見た。 (続↓
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Budivel'nykiv通りにある略奪された食料品店の外に、安定した通信接続が可能な場所がまだ1つあった。 1日に1回、車でそこに行き、階段の下にしゃがみこんで写真やビデオを世界にアップロードした。 階段は私たちを守ってはくれないが、野外にいるよりは安全だと感じた。 (続↓
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病院とその周辺の家々を砲撃が襲った。私たちのバンの窓も割れ、側面に穴が開き、タイヤもパンクした。 時には燃えている家を撮りに外に出て、爆発の中を走って戻ったこともあった。(続↓
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死はあっという間に来た。 2月27日、私たちは医師が榴散弾に当たった少女を助けようとするのを見たが、彼女は死んだ。 2人目の子供が死に、3人目の子供が死んだ。 救急車は、信号がないから呼べないし、爆撃された通りを移動できないので、負傷者を迎えに行くのをやめた。 (続↓
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だから、私たちは危険を冒してでも自分たちが見たものを世界に発信し、ロシアを怒らせて追い詰めた。 沈黙を破ることが、これほど重要だと感じたことはない。 (続↓
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医師たちは、自分たちの死体や負傷者を運んでくる家族を撮影してほしいと懇願し、減少しつつある発電機の電力をカメラに使わせてくれた。 「この街で何が起こっているのか誰も知らないのだ」と。 (続↓
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封鎖における情報の遮断は、2つの目的を達成する。 "混沌"が1番だ。 人々は何が起こっているのかわからず、パニックに陥る。 最初はなぜマリウポリがあんなに早く崩壊してしまったのか理解できなかったが、今ではコミュニケーション不足が原因だと分かっている。 (続↓
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第2の目的は「免罪符」だ。 街から情報が出ず、壊された建物や死んでいく子どもたちの写真もないため、ロシア軍はやりたい放題だ。私たちがいなければ、何もなかった事にできる。 (続↓
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ロシア軍は、電気、水、食料、そして携帯電話、ラジオ、テレビの電波塔を次々と破壊していった。 市内にいた数人のジャーナリストは、完全な封鎖が始まる前に脱出した。 (続↓
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途中、予備タイヤのことが気になりだし、近所の男が夜中でも売ってくれることをネットで見つけた その人や夜中のスーパーでレジの人に、戦争への準備をしているんだということを説明したが、まるで私たちがおかしいかのような顔をされた 午前3時半にマリウポリに入ると、1時間後に戦争が始まった (続↓