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実はキーウの展示品の中に樋口円香がいたんじゃなくて撮影者が展示品の上に樋口円香を置いて撮影したみたいです(下記参照)
twitter.com/minoru19961119…
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twitter.com/ShiodomeNoKaze…
一応コラかもというご指摘をぶら下げておく
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ウクライナ側でもアニメグッズ身に着けて戦ってる人を見るのでそこは不思議ではないがロシア軍でも同様の事があるんだなぁと驚くと共に(恐らく戦死した)シャニオタクのロシア軍兵士を悼むなど。
戦争が起きなければ彼は今もアイドルを愛でられていたので。
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フランス軍事偵察局のエリック・ヴィドー将軍がウクライナ侵攻を適切に予測できなかった責任により解任されたと。
軍事偵察局は実際にロシアが侵攻するまで国境の軍は交渉を有利にするためのブラフだと思い、そう大統領に報告していたらしい(ロシアが侵攻で大きな被害を被る=合理的ではないとして)
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もちろん、プーチンには大きな責任がありますし彼が命令したことは許されるべきものではありません
しかし、そのヘイトを一般的なロシア国民(もちろん在日ロシア人にもです)や文化に対して向けるのは止めましょう。
彼らに罪はないですし、彼らもある意味では被害者なのです。
一度冷静になりましょう
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予想以上の反響なのでもう少しだけ追加を。
こうした悲惨な状況を知ると義憤に駆られ、「プーチンを縛り上げろ!」みたいな返信を私にしたり(私にされても困ります…)
「ロシアはクズだ」の様に大きな主語で囲って誹謗中傷してしまう方もいます。
それは断じて違います。
(続↓
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ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
最後までマリウポリに残ったAP通信ジャーナリストに心から敬意を表します。
ウクライナで生まれ育ちながらウクライナでの戦争を取材する事になった彼はどんなに悲しかったでしょうか…想像も付きません。
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前回訳した、主に産科医院や子供達の死、マリウポリ包囲戦の惨状に焦点を当てた現地レポです。
よければこちらも合わせてお読みください。
twitter.com/akira2202_/sta…
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元記事
(注:元記事には遺体の画像が写真付きであります。見る方は覚悟して見てください。)
apnews.com/article/russia…
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私はあの建物と、その周辺の破壊された家々を知っている。その下敷きになっている人たちも知っている。
日曜日には、ウクライナ当局が、ロシアがマリウポリの約400人が避難する美術学校を空爆したと発表した。
しかし、我々はもうそこに行くことができない。
(終)
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先週末、何百人もの人々が避難していた劇場にロシアの空爆があったとき、私は生存者のことを知るために、そして瓦礫の山の下に何時間も閉じ込められていることがどんなことなのかを直接聞くために、どこに行くべきかを正確に特定することができた。
(続↓
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私たちが撮影した大切な人々の運命を知りたいと願う人たちからのメッセージは、今も絶えることがない。
まるで私たちが他人ではないかのように、私たちが彼らを助けることができるかのように、彼らは必死で、親密な手紙を送ってくる。
(続↓
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16カ所目の検問所に差し掛かった時、声が聞こえた。ウクライナの声だ。圧倒的な安堵感を覚えた。前の席の母親が泣き出した。包囲から出られたのだ。
マリウポリのジャーナリストは、私たちが最後だった。今は誰もいない。
(続↓
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15番目の検問所の警備員は、コーカサス地方の訛りのあるロシア語で話していた。路肩に置いた武器や装備を隠すため、ヘッドライトを消すように指示された。
車体に描かれた白い「Z」の文字が、かろうじて確認できた。
(続↓
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日没後、ロシアの進攻を阻止するためにウクライナ側が破壊した橋に差し掛かった。
そこには、すでに20台ほどの赤十字の車列が立ち往生していた。みんなで一緒に道を外れて、畑や裏道に入った。
(続↓
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人々は神経質になっていた。人々は緊張し、喧嘩をし、互いに叫び合っていた。1分ごとに航空機の通過や空爆があった。地面が揺れる。
私たちはロシアの検問所を15カ所通過した。
その度に、車の前に座っていた母親が、私たちに聞こえる程大きな声で祈っていた。
(続↓
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3カ所目、10カ所目、15カ所目、いずれも重火器を持った兵士が配置されていた。マリウポリが生き残るという私の希望は消えつつあった。
マリウポリにたどり着くには、ウクライナ軍は多くの地形を突破しなければならない。
それは不可能だった。
(続↓
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何時間も暗闇の中で、外の爆発音に耳を傾けていた。その時、兵士がウクライナ語で叫びながら、私たちを捕まえに来た。
救助とは思えなかった。ただ、危険な所から危険な所へ移動させられたという感じだった。
(続↓
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家族3人をヒュンダイ(現代自動車のこと)に詰め込み、市外まで5キロの渋滞に巻き込まれた。
その日、マリウポリから脱出した人は約3万人。あまりの多さに、ロシア兵は窓ガラスをプラスチックの破片で覆った車をじっくり観察する余裕もなかったという。
(続↓
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マリウポリに安全な場所はなく、救いもない。
いつ死んでもおかしくない状況だった。
兵士たちに驚くほど感謝しながらも、痺れを切らしていた。
そして、自分がここから去っていくことを恥じた。
(続↓
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私たちは7階に上がり、弱々しいインターネット回線からビデオを送った。
そこでは、戦車が次々と病院の敷地に迫ってくるのを見た。
戦車には今やロシアの紋章となった「Z」の文字が書かれていた。
(続↓
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私たちは包囲された。何十人もの医師、何百人もの患者、そして私たち。
病院を守っていたウクライナ兵の姿はない。食料、水、道具を積んだ私たちのバンへの道は、ロシアの狙撃手によって塞がれ、外に出た救命士をすでに襲っていた。
(続↓
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その結果、前線にある病院で、赤ちゃんを連れた女性や陣痛中の女性を見つけることができた。
また、ある女性は赤ちゃんを亡くし、さらに自分の命も失っていることがわかった。
(続↓
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このプロパガンダは非常に強力で、私たちが話した人の中には、自分の目で見た証拠にもかかわらず、それを信じ込んでしまった人もいた。
ソビエト流のメッセージが絶えず繰り返される。
「マリウポリは包囲されている。武器を捨てて投降しろ」
(続↓