大久保ヤマト(@mousou_roku)さんの人気ツイート(新しい順)

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#斜め後ろからの美学 ※甲冑の時代区分は目安です。
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【金子十郎】『源平盛衰記』は、衣笠城を果敢に攻める金子十郎に感じ入った三浦大介が、酒を振る舞い激励し、十郎もそれに応えて、今度は腹巻を被って更に力闘する。その猛勇に大介も驚き、和田義盛に命じて射倒させたが、弟の余一が救出したので、金子兄弟がこの日のMVPだったと記す。
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【節分】江戸時代、大晦日と節分の日には、「厄払い」と呼ばれた者が東方朔、浦島太郎、三浦義明を織り混ぜた文句を唱えて家々を回って、長寿と健康を祈願する風習があり、落語の「厄払い」、歌舞伎の「助六」にその場面が出てくる。
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思ってた以上にカッコ良いと思ってる。
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【安濃津城の戦い】関が原合戦の折、富田信高が苦戦していると、一人の武者が現れ敵を蹴散らした。難を逃れた信高は、この武者が自分の妻だと知り、感激しつつ二人仲良く城に戻ったという。彼女は宇喜多忠家の娘と伝わるが、残念ながら名はわからない(常山紀談)。
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【悪源太の狒々退治伝説】岩屋岩蔭遺跡のある、岐阜県下呂市金山地方には、悪源太義平が妖怪狒々を退治したという伝説が伝わっている。pref.gifu.lg.jp/page/7359.html
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※このころの武士は、特殊な鍛練を積んでおり、心身ともに常人の範疇をはずれているので、良い子は絶対に馬で崖を駆け下りたり、馬を背負ってみようとしてはいけません、念のため。
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【鵯越の逆落とし】一の谷合戦で源義経は、鵯越と呼ばれる難所を馬で駆け下って平家軍を奇襲した。一方畠山重忠は、愛馬の三日月を労わって、背負って静々と下りて行ったという逸話がある(源平盛衰記巻37)。 重忠「九郎殿はよくあんなことできるよな」 三日月「アンタもね…」
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寒いですね。
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【悪源太】『平治物語』では、待賢門合戦において、源義平が平重盛に勝負を求め、紫宸殿の左近の桜・右近の橘の間を執拗に追い回す場面があるが、記述の大内裏の構造は平治の乱の当時と異なると考えられ、実際にあったかは不明である。この場面を思い出す度、徒歩の郎従は大変だったろうなと思う。
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俺もあげちゃお、巴と義仲。『鎌倉殿の13人』の作劇スパンだと、板額もちょっと出てきたりしないかな。
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【鯰尾形兜】桃山時代の武将にとって、鯰は地震を起こすという俗信から、敵の心を揺るがす武勇を発揮するための縁起担ぎとして、尾を象った意匠が蒲生氏郷や堀直などに好まれた。なかでも前田利長の兜の鯰尾は長大である。 現代の我々は、大地の平穏を願って畏れ敬い、荒ぶる時に備えるのみです。
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【いい風呂の日(11/26)】 源義朝「よくねーよ!」 ※義朝は、逃亡中に立ち寄った家人の屋敷で風呂に入った時に襲撃され、帰らぬ人となった。
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【いい文の日(11/23)】毛利元就は、息子の隆元・元春・隆景の三兄弟へ、家名の存続のための訓示を記した、全長3メートルにも及ぶ手紙を送った。これが後世『三子教訓状』と呼ばれる有名な手紙である。
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#いい夫婦の日 岡山五代藩主池田治政は、妻の米子に鎧を贈ったという話がある。林原美術館に今も収蔵されている。
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老将
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【金刺盛澄】源頼朝に従うのが遅かった盛澄は不興を買い囚人となっていたが、秀郷流の弓術を流鏑馬で披露して免罪を請うた。頼朝は暴れ馬で行うよう命じ、盛澄が全中で応えると、今度は更に小さい的で挑戦させられ、それも全中すると次は的をのせた串を射よ言われ、これにも応えて赦しを得たという。
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#過去作で自分が最高だと思う絵を1枚載せて5rtを目指せ 鎮西八郎。これは沢山見て欲しいですね。
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#エアコミティア137_歴史 【可児才蔵】小牧長久手の陣で敗れた大将の豊臣秀次は、徒歩で退却するほどの混乱ぶりであった。そこを馬で通っていく才蔵を見るや「その馬を貸せ」と命じたところ、才蔵は「雨の日の傘でござる」と言い捨て逃げていった、という逸話が『小牧陣始末記』に紹介されている。
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#真夏の芸術納涼祭2021 納涼ということで、オカルティックなのを。
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野馬追のこんな感じの光景ブチ上がるよねー。
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鍾馗が五月人形にもよく飾られるのは、子供が無病に健やかに成長するのを祈ってのもの。