大久保ヤマト(@mousou_roku)さんの人気ツイート(いいね順)

1
【鵯越の逆落とし】一の谷合戦で源義経は、鵯越と呼ばれる難所を馬で駆け下って平家軍を奇襲した。一方畠山重忠は、愛馬の三日月を労わって、背負って静々と下りて行ったという逸話がある(源平盛衰記巻37)。 重忠「九郎殿はよくあんなことできるよな」 三日月「アンタもね…」
2
野馬追のこんな感じの光景ブチ上がるよねー。
3
くろう「違うか」 こたろう「みてくれ~」
4
鍾馗が五月人形にもよく飾られるのは、子供が無病に健やかに成長するのを祈ってのもの。
5
老将
6
今日、南北朝フェスに行ってきた。そこでお土産に買ったお饅頭。なぜだか、うまい、うますぎる。
7
『鎌倉殿の13人』の比企能員の好きなシーン。釣り具やゴルフクラブの手入れしながら「これで今度の日曜は…♪」みたいな感じ。三浦や土肥とか皆やってんだろうと思うとほっこりする。エグイ釣果を思い浮かべてご満悦なんだろうけども。
9
鎌倉の通り魔。
10
#日本史用語に恋のをつけるとモテる 恋の遣唐使 最終話: 「白紙にもどそう」
11
思ってた以上にカッコ良いと思ってる。
12
二本だけど九尾の狐です。
13
【安濃津城の戦い】関が原合戦の折、富田信高が苦戦していると、一人の武者が現れ敵を蹴散らした。難を逃れた信高は、この武者が自分の妻だと知り、感激しつつ二人仲良く城に戻ったという。彼女は宇喜多忠家の娘と伝わるが、残念ながら名はわからない(常山紀談)。
14
【鯰尾形兜】桃山時代の武将にとって、鯰は地震を起こすという俗信から、敵の心を揺るがす武勇を発揮するための縁起担ぎとして、尾を象った意匠が蒲生氏郷や堀直などに好まれた。なかでも前田利長の兜の鯰尾は長大である。 現代の我々は、大地の平穏を願って畏れ敬い、荒ぶる時に備えるのみです。
15
寒いですね。
16
#斜め後ろからの美学 ※甲冑の時代区分は目安です。
17
今年の大河の御曹司には敵わないけど、自分の線でも描いておく。
18
#いい夫婦の日 岡山五代藩主池田治政は、妻の米子に鎧を贈ったという話がある。林原美術館に今も収蔵されている。
19
【和田合戦】義盛は愛息義直の戦死の報を受け忽ち戦意を喪失、慟哭している所を討ち取られた(吾妻鏡、建暦三年五月条)。この戦いの間、毘沙門天が義盛のために矢を受けたり拾ったりして助けたという「箭請(やうけ)毘沙門天」の伝承が、慶派の作による毘沙門天像が安置する清雲寺に伝わっている。
20
三浦、上総、千葉の一族は、朝廷のおぼえめでたき武士団だったようだ。
21
【いい文の日(11/23)】毛利元就は、息子の隆元・元春・隆景の三兄弟へ、家名の存続のための訓示を記した、全長3メートルにも及ぶ手紙を送った。これが後世『三子教訓状』と呼ばれる有名な手紙である。
22
#エアコミティア137_歴史 【可児才蔵】小牧長久手の陣で敗れた大将の豊臣秀次は、徒歩で退却するほどの混乱ぶりであった。そこを馬で通っていく才蔵を見るや「その馬を貸せ」と命じたところ、才蔵は「雨の日の傘でござる」と言い捨て逃げていった、という逸話が『小牧陣始末記』に紹介されている。
23
赤糸威大鎧はいいぞ。
24
俺もあげちゃお、巴と義仲。『鎌倉殿の13人』の作劇スパンだと、板額もちょっと出てきたりしないかな。
25
【朝比奈義秀】和田義盛の三男の義秀は、源頼家の所望に応じ、小坪の浜で水練の妙技を披露した時、波間に隠れしばらく姿が見えなくなると、三匹のサメを捕まえて浮上してきたという(『吾妻鏡』正治二年九月大)。