「イラストだけの場合」「文章だけの場合」「イラストと文章が同時に提示された場合」では、当然ながら与える印象も発するメッセージも別物になる。一連のあれこれを見ていて、それを受け取る消費者側の解像度(リテラシー)はもっと高くなるといいなと思った。
しだゆいさんによるnote記事「隠れた権力としての「サイゼ」vs架空の権威としての「大学教授」」がめちゃくちゃおもしろくて読み応えがあった。 note.com/shida_huit/n/n…
例の新聞広告に対する「男性のまなざしを織り込んだ性的客体化である」「ステレオタイプを強化する」というような批判は正当だし、僕もまったくその通りだと思う。でも、あのレベルの表現は「グレーゾーン」の範囲で、批判が出るのは当然としても「存在を認めるべきではない」とまでは言いがたい。
国立映画アーカイブが運営している「日本アニメーション映画クラシックス」というサイトで、日本の初期アニメーション映画が大量に無料公開されています。animation.filmarchives.jp/index.html
5月16日は溝口健二(1898-1956)の誕生日。 代表作の『雨月物語』(1953年)より、画面に幽霊を招き入れるためのあまりにも魔術的なワンカット。
言葉は比喩的に用いられることがあって、じっさい、日本語では歴史的に女性の(性的な)身体を植物(花やフルーツ)に喩えてきたんですよ。「果実」や「果肉」は女性身体の一部を表現するし、その延長で「熟れた」とも言うし、さらに「食べること」の比喩ともつながりますね。twitter.com/an_6531/status…
映画論の授業は三週にわたって『椿三十郎』を取り上げた。黒澤明のオリジナル版(1962年)と森田芳光のリメイク版(2007年)の比較。同じ脚本を使っているのでそれ以外の要素(演出、カメラ、編集等)に注目しやすい。たとえば序盤の抜刀シーン。見比べてみて、それぞれどんな印象を受けるだろうか。
話が逸れたけれど、そもそもサイレント映画は秒速16コマとか18コマとかで撮影されていて(じっさいにはもっとバラバラだったようだが)、トーキー以降に標準化された秒速24コマまで映写するとナチュラルに1.5倍速になる。サイレント映画のちょこまかした動きはそのせい。
男性の頭上(視線の先)にある「ガラスの天井」は、日経新聞を読めば乗り越えられるのかもしれない。一方、同じように構図の上半分が空いていても、女性側は「ガラス」が後景に退いており、気づくことさえできない。「女性が置かれている不当に不遇な状況を指す概念」までもが視覚的に簒奪されている。
社会のなかに当たり前に存在している多くの制度や規範は、人々がそれと気づかないくらい自然に男性目線で設計されている。それは娯楽的な表現にも当然入り込む。フェミニズム批評は、無自覚のうちに反復強化されているそうした差別構造に光を当てようとし、じっさいに当ててきた。その意義は大きい。
漫画の表現が持つ意味は作者本人にしかわからないというお考えですか? かなり尖った考え方だと思います。じゃあ読者はいったい何を読まされているんでしょうか? 表現の意味を決めるのが作者だと本気で考えていらっしゃるなら、僕とは根本的に考え方が合わないわけですね。ごめんなさい。 twitter.com/_kprc_/status/…
初期映画研究で指摘されているように、サイレント時代は活動弁士のパフォーマンスが重視されていたので映画鑑賞のライブ性はかなり高く、権力側からすると管理するのが難しかった。各種条例が定められ、トーキー化とともに弁士が姿を消してゆき、1939年についに「映画法」が施行される(戦後廃止)。
「text:庵野秀明 「エヴァンゲリオン」そして「ラブ&ポップ」」(撮影・構成・編集:カンパニー松尾、バクシーシ山下、1998年1月放映) 『ラブ&ポップ』のDVD(SR版)に特典映像として収録されている。
『ラーゲリより愛を込めて』のDVD &Blu-rayの発売、レンタル開始が本日7月7日からということで、公開時に書いた映画評を再提示しておきます。 #二宮和也 #北川景子 #松坂桃李 #中島健人 #桐谷健太 #ラーゲリより愛を込めて #ラーゲリ #ラーゲリDVD #ラーゲリDVD七夕発売 hitocinema.mainichi.jp/article/x9lc6d…
タイポグラフィといえば、ソール・バスが手がけた『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1960年)のオープニング・クレジットが見事。「人が切り裂かれるシャワー室の場面」をオープニングのデザインで予告的に、しかもめちゃくちゃお洒落に表現している。
『ラーゲリより愛を込めて』の記事が週間ランキングの2位に入っていた。 もちろんアクセス数自体は二の次だけれど、精魂込めて書いた文章が結果として多くの読者に届いたのは光栄なことだし、素直に嬉しい。 #瀬々敬久 #二宮和也 #北川景子 hitocinema.mainichi.jp/article/x9lc6d… twitter.com/hitocinema/sta…
この魔術的なワンカットは、実は超絶技巧の音響に支えられている。このシーンは同時録音(撮影と同時に音をとっている)で、マイクを4つか5つ使っている。でも、当時のミキサーには音声の入力端子が2つしかなかった。つまり、撮影中にマイクのコードを早業で抜き差しして、必要な音だけを拾っている。 twitter.com/hitoh21/status…
「男性のまなざし」は、それまで特に問題がないと考えられてきたハリウッドの娯楽映画(ヒッチコックとか)を痛烈に批判する際に用いられた概念で(じっさい、ハリウッドは少しずつ変わっていった)、広告表現がその対象になるのはむしろ当然。というか広告は現実に批評の対象であり続けてきている。
『ドライブ・マイ・カー』に対する違和感の表明を目にするようになったけれど、そもそも作品が話題になっているからこそ、そうした声が届く(共感を集める)ようになっている点と、それによって、世の中にさまざまな立場や考え方があることを可視化してくれている点で健全で望ましい状況だと思う。
濱口竜介監督の『不気味なものの肌に触れる』(2013年)が12月31日までに期間限定で無料配信中。 urlz.fr/gU0E
「技巧派」としての溝口演出のあらわれは『お遊さま』の冒頭部分にも見ることができる。登場時にチラッと姿を見せたあと、物語上の要請にしたがって乙羽信子(先頭から二番目)を執拗に画面から排除していく。ゆったりとしたカメラワークのなかで緻密に画面を設計している。twitter.com/hitoh21/status…
そんな「偉大な」ヒッチコックに手厳しい批判をくわえたのがローラ・マルヴィの論文『視覚的快楽と物語映画』。フェミニズム映画批評を画する記念碑的論文。この論文自体もさまざまな批判に晒されることになるが、「まなざし」の意味がわからなくて、本気で知りたいと思っている方には一読を勧めたい。
昨日の授業で取り上げたのは黒澤明の『椿三十郎』(1962年)。見どころはほぼすべてと言っても過言ではない。この引用は冒頭シーンの一部で、10個のショットからなる40秒弱の映像。これだけで一コマ使い切れる(実際の授業内容は異なる)。殺陣を映えさせるための空間設計と編集が冴え渡っている。
この手のリプもたくさんくるけれど「普段からエロいことばかり考えている」のは何か悪いことなんですか? 僕は別に悪いことだとは思いませんが、あなたは悪いと思っているから悪口のつもりで言ってくるんですよね? twitter.com/bakabakaweb/st…