『ラーゲリより愛を込めて』のDVD &Blu-rayの発売、レンタル開始が本日7月7日からということで、公開時に書いた映画評を再提示しておきます。 #二宮和也 #北川景子 #松坂桃李 #中島健人 #桐谷健太 #ラーゲリより愛を込めて #ラーゲリ #ラーゲリDVD #ラーゲリDVD七夕発売 hitocinema.mainichi.jp/article/x9lc6d…
「もうすぐお父ちゃまのところへ行くのよ」 今日の講義は「ゴジラ」。初代『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954年)のこのシーンを説明するときに涙ぐんで学生に不審がられてしまった。… twitter.com/i/web/status/1…
映画論の授業は三週にわたって『椿三十郎』を取り上げた。黒澤明のオリジナル版(1962年)と森田芳光のリメイク版(2007年)の比較。同じ脚本を使っているのでそれ以外の要素(演出、カメラ、編集等)に注目しやすい。たとえば序盤の抜刀シーン。見比べてみて、それぞれどんな印象を受けるだろうか。
この魔術的なワンカットは、実は超絶技巧の音響に支えられている。このシーンは同時録音(撮影と同時に音をとっている)で、マイクを4つか5つ使っている。でも、当時のミキサーには音声の入力端子が2つしかなかった。つまり、撮影中にマイクのコードを早業で抜き差しして、必要な音だけを拾っている。 twitter.com/hitoh21/status…
5月16日は溝口健二(1898-1956)の誕生日。 代表作の『雨月物語』(1953年)より、画面に幽霊を招き入れるためのあまりにも魔術的なワンカット。
『ラーゲリより愛を込めて』の記事が週間ランキングの2位に入っていた。 もちろんアクセス数自体は二の次だけれど、精魂込めて書いた文章が結果として多くの読者に届いたのは光栄なことだし、素直に嬉しい。 #瀬々敬久 #二宮和也 #北川景子 hitocinema.mainichi.jp/article/x9lc6d… twitter.com/hitocinema/sta…
『ラーゲリより愛を込めて』(瀬々敬久監督)について「映画における主観的な時間」をテーマに書きました。 もう劇場公開も終わりに差し掛かっていますが、つい先日、シベリア抑留経験者の祖父が亡くなったばかりで、映画に絡めて最後に個人的な思いも書いています。 hitocinema.mainichi.jp/article/x9lc6d…
男性の頭上(視線の先)にある「ガラスの天井」は、日経新聞を読めば乗り越えられるのかもしれない。一方、同じように構図の上半分が空いていても、女性側は「ガラス」が後景に退いており、気づくことさえできない。「女性が置かれている不当に不遇な状況を指す概念」までもが視覚的に簒奪されている。
コピーを変えても写真のメッセージは温存される。真顔で視線を斜め上に向けている男性の「上昇志向」に消費者を誘導する一方、笑顔を浮かべてこちらに視線を向ける女性はあくまでまなざしの対象にとどめ置かれる。「見る性/見られる性」の不均衡をあられもなく露呈している。nikkei.com/promotion/camp…
しだゆいさんによるnote記事「隠れた権力としての「サイゼ」vs架空の権威としての「大学教授」」がめちゃくちゃおもしろくて読み応えがあった。 note.com/shida_huit/n/n…
「食べ物で遊ぶこと」や「食べ物を粗末に扱うこと」に対する抵抗感は現代の日本社会でもそれなりに広く共有されている倫理観だと思うけれど、僕の捉え方だと「料理を番号で注文すること」はそれに類する。番号化が受け入れられつつあるのだとすれば、それは食をめぐる倫理観の変化(麻痺)を意味する。
続きの部分(庵野秀明のテレクラ潜入ドキュメント)。 女性からとある「いい言葉」をかけられた庵野が「ありがとう」とお礼を述べつつ、エヴァとは言わずにエヴァの苦労話を訥々と語り始め、それをおもしろがった女性が「遊ぼうよ」と誘ってくる。 そして渋谷で夜9時に待ち合わせをすることにーー。
「text:庵野秀明 「エヴァンゲリオン」そして「ラブ&ポップ」」(撮影・構成・編集:カンパニー松尾、バクシーシ山下、1998年1月放映) 『ラブ&ポップ』のDVD(SR版)に特典映像として収録されている。
庵野秀明のテレクラ潜入ドキュメント。お相手の女性がエヴァの話題を振ってくる超展開(庵野の素性は伏せている)。 「映画とか観に行った?」 「映画は、うーん、まあ観たっちゃ観たんだろうなあ」 「詳しいっすねえ」 「結構じゃあハマってた方なの?」 「いや、俺、冷めてたけどーー」
ニュースで報道された是枝裕和監督の発言「(赤ちゃんポストが)赤ちゃんを救う箱なのか、母親を甘やかす箱なのか」の後半部分は「母親を甘やかす箱なのか(いや、そんなはずがない)」という反語的表現に決まっているけれど、文字通りに受け取っている人が少なからずいるようで驚いた。
何が言いたいかというと、映画史的には「映画を早送りで見たい」とか「自分好みの速さに調整したい」という欲望自体はずっと前から存在していて、個人視聴環境の一般化と再生技術の発達がその欲望を全面化したという見方もできるだろうということ。
話が逸れたけれど、そもそもサイレント映画は秒速16コマとか18コマとかで撮影されていて(じっさいにはもっとバラバラだったようだが)、トーキー以降に標準化された秒速24コマまで映写するとナチュラルに1.5倍速になる。サイレント映画のちょこまかした動きはそのせい。
初期映画研究で指摘されているように、サイレント時代は活動弁士のパフォーマンスが重視されていたので映画鑑賞のライブ性はかなり高く、権力側からすると管理するのが難しかった。各種条例が定められ、トーキー化とともに弁士が姿を消してゆき、1939年についに「映画法」が施行される(戦後廃止)。
「皇室に関するフィルムを映写する場合には速度を遅めにするべし」というガイドラインがあって、じっさいに映写技師がそれを意識していたという証言が残っている(リンク先参照)。興行主側の事情で観客の回転率を上げるために映写速度を上げていたケースもあるようだ。 nfaj.go.jp/wp-content/upl…
「映画を倍速で見たい」「映画を自分の好きな速さに調整したい」という欲望自体は映画史初期から存在する。日本のサイレント映画の場合、映写が手廻しだった頃は活動写真弁士の意向で速度が変更されていた。見せ場を作るためにあるシーンの映写速度をわざと遅くすることが平然とおこなわれていた。
いくら丁寧に説明しても、参考文献を提示しても、最終的には本人に学ぶ意思がなければどうしようもないですからね。未知の考えに触れるのは怖いですもんね。自分の考え方を変えるのには勇気もいりますし、無理強いはできません。おもしろいものが世の中にひとつでも見つけられてよかったですね。 twitter.com/2g929fh27/stat…
昨日の授業で取り上げたのは黒澤明の『椿三十郎』(1962年)。見どころはほぼすべてと言っても過言ではない。この引用は冒頭シーンの一部で、10個のショットからなる40秒弱の映像。これだけで一コマ使い切れる(実際の授業内容は異なる)。殺陣を映えさせるための空間設計と編集が冴え渡っている。
「見る側にいると思って安心して消費に励んでいたら、いつの間に見られる側に置かれていて恐怖を覚える」というのはおもしろい見方ですね。何かの核心をついているかもしれません。批評的に展開できそうなアイデアだと思いました。 t.co/xIxZedBWu7
言葉は比喩的に用いられることがあって、じっさい、日本語では歴史的に女性の(性的な)身体を植物(花やフルーツ)に喩えてきたんですよ。「果実」や「果肉」は女性身体の一部を表現するし、その延長で「熟れた」とも言うし、さらに「食べること」の比喩ともつながりますね。twitter.com/an_6531/status…
漫画の表現が持つ意味は作者本人にしかわからないというお考えですか? かなり尖った考え方だと思います。じゃあ読者はいったい何を読まされているんでしょうか? 表現の意味を決めるのが作者だと本気で考えていらっしゃるなら、僕とは根本的に考え方が合わないわけですね。ごめんなさい。 twitter.com/_kprc_/status/…