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今週の #鎌倉殿の13人
・初対面で膝枕要求する義弟
(政子ちゃんの膝を撫で回すな🙃)
・八重さんにあげたお餅古すぎ問題
・噛み合わない源兄弟の思い出
・女子マウントの怖さ
・面白くない冗談は悪即斬
・空気は読めないが、戦術はできる子 義経
・女子は皆キノコ好き説(私は好きだが)
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#どうする家康 第1回
・14歳で木彫りのウサギと遊ぶ家康🐰
・家康「では、遠慮なく」(←好き)
・本業を発揮する今川義元
・義元「余と氏真を末永く支えてほしい」
家康「身に余るお言葉」
※支えるとは言ってない
・達磨大師みがある信玄
・同盟できそうにない回想の信長
・俺の白兎(え?)
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五徳はこのあと織田に戻るのですが、再婚することは無かったそうで、ドラマの通り「岡崎殿」と呼ばれていたようです。
信長の死後は兄の庇護を受け、のちに秀吉への人質になったということなので、また後で出てくることもあるのかな。
#どうする家康
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信長は、長政だけでなく、松永久秀や荒木村重に裏切られたときも、はじめは信じないんですよね。
意外と信じやすいところある。
「松平記」「三河物語」など徳川方のお話では、信長は家康に知らせることなく自分は退却したことになっています。
#どうする家康
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「吾妻鏡」曽我兄弟仇討ちの流れ
兄弟が館に忍び込み、工藤祐経を殺害
→同宿の吉備津宮の王藤内も殺害
→居合わせた遊女たちが悲鳴をあげる
→曽我兄弟「仇をとった!」と声をあげる
→駆けつけた海野幸氏らが傷を負う
→兄は仁田忠常に討ち取られ、弟は捕らえられその後梟首となる
#鎌倉殿の13人
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#鎌倉殿の13人 第14回
・よいお顔立ち
・義高と大姫、守りたいこの笑顔
・千人分の武働きができそうな巴御前
・可愛すぎる安徳天皇(滝涙)
・笑われても、やめないでピュア義仲
・重要:三種の神器の奪還
・鼓判官による自己異名解説
・全成 “呪詛の座は譲らない“
・義時→八重の敬語が消えた尊み
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#どうする家康 第九回
・"色男"がもはや本名感ある忠世
・“寺を丸裸に“……皆の頭をよぎる大坂の陣
・捕まった正信の言葉、現代にも通じる説得力
・家康より瀬名の方が動じない
・高すぎる海老すくいの頻度
・歩き巫女・望月千代女と仙人・信玄
・寺を元通り→約20年後、寺院再興を認めてるよ
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蝉の抜け殻を集めるのが好きだった冠者殿。大姫の死とともに、後ろで命を終えたような蝉の声が……。
大姫が冠者殿の元へ飛び立ったのがよく感じられた……
#鎌倉殿の13人
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桶狭間で家康を守った時も、今回の榊原康政(小平太)を助けた時も、瀬名たちが無事に川向こうから家康のもとに戻った時も、サッと我が身を前に出し槍を構え守ろうとする本多平八郎忠勝見ました!?
(面倒見の良いツンデレですね)
そのうち康政と仲良く競い合うだろうから楽しみにしてる
#どうする家康
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#どうする家康 第4回
・将来信長に足蹴にされた光秀を不思議な顔で見そうな秀吉
・岡田信長と北川お市兄妹の美の暴力
・幼少お市をちゃんと藁の上に下ろすノッブの優しさ
・顔ペチからのビンタ
・とにかく秀吉が怖い
・好きゆえに優しい嘘をつくお市と、好きゆえに傷つけてしまう氏真の対比
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家康と信長が和睦をした頃の書状(推定)に、家康が足利将軍・義輝に馬を送ったことが分かるものがあります
将軍が馬を欲しがっていたところ、家康は迅速に献上。義輝は信長にも所望していたもののまだ献上がなかったので、家康を褒めています。
周囲とバタバタ中でも機会を逃さない家康
#どうする家康
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本多正信は、のちに真田と幕府を繋ぐ取次になったり、正信の息子が直江兼続の養子になるなど、その繋がりも興味深い人物。
真田信之が父・昌幸の死にあたり、葬儀について正信に相談していたことはよく知られます。謀略家のイメージが強そうですが、返事の内容からは気遣いを感じます
#どうする家康
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#どうする家康 第5回
・家臣内で(ヤバくて)有名すぎる正信
・真面目なはずなのに何か笑える半蔵
・「己は策がないくせに」はリアルでもあるある✊
・毒入り菓子じゃなかった(毒に慣れた「麒麟がくる」勢🍵)
・巴ママも田鶴も「そんなつもりじゃなかった」
・悲しみの「どうする瀬名ちゃん」回
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【お知らせ】
#日本歴史時代作家協会賞 の新人賞候補作に、小栗さくらの『#余烈』(#講談社)がノミネートされました!
候補に上がったこと自体とても光栄なことで、お知らせを聞いて本当に驚きました。結果は少し先なので、次回作を練りながら待ちたいと思います
rekishijidaisakka.hatenablog.com/entry/2022/07/…
#小栗さくら
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畠山重忠が滅んだあと、島津氏は畠山の一族や郎等を招き入れました。重忠の郎等・本田近常(重忠の乱でともに戦い自害)の子孫も島津に仕えています。
島津氏の祖・忠久と畠山氏に縁があったといわれます。その後、鉢形など畠山の所領の一部が島津のものとなったとか。
#鎌倉殿の13人
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りくに入れ知恵をされ動く時政という図で展開されていますが、時代考証の坂井先生は
「『吾妻鏡』編纂者は時政を擁護するため、牧の方(りく)を事実以上に悪役に仕立てたのではないか」
と書かれています。
#鎌倉殿の13人
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#鎌倉殿の13人
壇ノ浦の戦い古戦場が一望できる場所としておススメなのは、山口県下関市の「火の山」。
義経軍が集結した満珠・干珠の島から、平氏が本拠を置いた彦島までぐるりと見渡すことができます!
歴史ある和布刈(めかり)神社は、当時から戦いを見守っていたのですね……
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景時は私欲があったわけではないから、忠義をもって尽くせば伝わると思っていたんだろうな……。
私欲ばかりの御家人たちより、頼家が自分を選んでくれると思っていた。弁明もする必要もないと思っていた。
景時ほどの人物が涙ぐむなんてよほどだよね……
#鎌倉殿の13人
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#鎌倉殿の13人 22回
・八重は楽しかったし満足していた🥲
・初対面感のない頼朝と後白河
・姉上にはよく首を絞められていた(小四郎談)
・征夷大将軍ー!
・全成:私の占いは半分しか当たらない
・すぐ手を出そうとする頼朝
・比奈「(小四郎は)薄気味悪い」
・幼い金剛の漢気🥹
・曽我兄弟の仇討ち序章