金閣寺の焼け跡と焼失前の金閣寺
関東大震災発生時、連合艦隊は大連沖で訓練中でした。 地震発生の報告を受け連合艦隊は訓練を中止、救援物資を搭載して東京湾に向かっています。 このとき連合艦隊旗艦の戦艦長門は、対外公称速力23ノットであるにも関わらず、大隅沖で26ノットの速力を出していたのがイギリス海軍に目撃されています。
1933年12月23日、上皇陛下が生まれました。 昭和天皇の子は4人続けて女子であったため、皇位継承者の誕生に国中が湧き上がったといいます。 魚類学者としても知られており、ハゼの研究者として論文も執筆、退位後の2020年にもオキナワハゼ属の新種を発見するなど活躍されています。
1854年9月19日、高橋是清が生まれました。 13歳で海外留学した際、ホームステイ先で年季奉公の契約書に騙されてサインしてしまい、終いには売られてしまう是清。 そこで奴隷として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気付かずに、キツイ勉強だと思っていたそう。この間に語学を習得したそうです。
1594年10月8日、石川五右衛門が処刑されました。 都市部を荒らし廻り、豊臣秀吉によって一族もとろも処刑されました。 生きたまま油で煮殺され、子供を守るため自身が息絶えるまで子供を持ち上げていたという伝説が残っています。 江戸時代以降、伝説の大泥棒として多くの作品の題材となりました。
1974年12月28日、カルピス創業者の三島海雲が亡くなりました。 モンゴルで瀕死の状態にあった際に乳酸菌と出会い命拾いした経験から、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」を発売しました。 「カル」はカルシウム、「ピス」はおいしさを表すサンスクリット語です。 水玉のデザインは天の川を表しています。
明治時代に撮影された、下の子の世話をする姉たち
今日は建国記念の日です。 戦前は紀元節と呼ばれていましたが、戦後GHQによって削除され、1967年に佐藤栄作内閣によって建国記念の日として復活しました。 今年は初代天皇の神武天皇が紀元前660年2月11日に即位してから2682年目、皇紀2682年となります。
約120年前、明治時代に撮影された日本人の暮らし
本日は「新嘗祭(にいなめさい)」です。 その年の新穀をお供えし、一年の実りへの感謝とともに、国家国民の安寧を祈る日です。 昭和23年まで新嘗祭は同名の祝日でしたが、GHQの占領下において「勤労感謝の日」という名称に変更されました。
1945年8月9日、広島に次ぎ、長崎に原子爆弾が投下されました。 投下されたのは、広島に投下されたウラン型ではなく、アメリカが多額の予算を注ぎ込んだプルトニウム型の原子爆弾でした。 ウラン型とプルトニウム型の威力を比較・実験するために、長崎は2度目の被曝地目標になったといわれています。
家康が水野信元と会った頃(1561年2月頃)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 18歳 瀬名 19歳前後 石川数正 28歳 酒井忠次 34歳 本多忠勝 12歳 鳥居忠吉 71歳前後 大久保忠世 29歳 水野信元 39歳前後 久松長家 35歳 於大の方 33歳 武田信玄 39歳 織田信長 26歳 今川氏真 23歳 #どうする家康
1945年8月15日、終戦を迎えた人々の様子 #終戦記念日
1919年7月7日、カルピスが発売されました。 写真は大正時代に掲載されていた広告です。
右下、三千里薬品は現在も渋谷で営業を続けています。 開業当初は食堂として営業していたものの、渋谷駅前の道路拡張により店舗面積が縮小。 1962年に薬局「三千里薬品」として再スタートを切り現在に至ります。
阿野全成の娘が公家に嫁ぎ、阿野の名字と領地を相続したことで阿野家は公家として残り、全成の血は天皇家にと繋がります。 養子を挟みながら昭和まで続くも、戦争で当主と後継ぎが戦死し断絶。 阿野家の墓は今も谷中霊園にひっそりと建っています。 #鎌倉殿の13人
明治時代に撮影された電柱のある日本の風景 最初は電信用の柱として作られ、のちに電話用、電気用としても使われるようになります。 当時の電柱は木製で、明治維新から10数年が経った頃には電柱のある風景は日本のいたるところで見られるようになりました。
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の日本の風景
明治時代に撮影された清水寺の様子
明治時代に撮影された琵琶湖
日露戦争で外国の観戦武官を交えて撮られた日本軍司令部の集合写真 100年以上前から、集合写真の最前列で寝そべる人がいたことが分かります。
ここから少し笑い話。 幕末の混乱の真っ只中で、時の経過と共に品種改良の事は忘れさられ、26頭の馬は散逸してしまう。 これを知ったフランス公使は、ナポレオン3世の厚意を踏み躙ったと、遺憾の意を外務省に伝える始末。 重大な国際問題になりかねないと焦った政府は必死で馬探しを始めたという。
銀座の変遷(1880〜1933)
大正時代に撮影された東京の風景
1868年7月19日、新選組一番隊組長の沖田総司が亡くなりました。 剣の腕は抜群で、竹刀での稽古では土方歳三が子供扱いされるほどで、近藤勇でも敵わなかっただろうとのちに永倉新八は語っています。 沖田の稽古は相当厳しく、「刀で斬るな、体で斬れ」と指導し、近藤勇より恐れられていたそうです。