「注射でアナフィラキシーになったことあります」 「あら。じゃ看護師さんじゃなく、僕が打ちますね」 2回目の接種で問診のお医者さんにそう言われ、「いや、誰が打っても同じだし、違う薬だし」と答えたら、 「万が一のとき、僕が責任取れるからね」 守ろうしたのは私じゃなかった。 惚れた。
ちなみにアナフィラキシーになったのは「強力ミノファーゲン」。これは医療関係者には「アレルギーの薬のアレルギー持ちって」とかなりウケる。 ひどい蕁麻疹のときに打って、2回も完全に意識不明に。「下手したら死ぬから気をつけて」と言われてます。
2回も、なのは、最初に気絶した中学生のとき、医者が「気分良くなったらお帰りを」と何も教えてくれなかったから。 大人になって蕁麻疹でまた打たれたときは、注射でされながら意識が薄れていくのがわかった。 「同じこと、昔ありました」と言ったら「先に言ってよ!」と叱られた。 浮世は理不尽だ。
「おれもやられたことを『上』になったら『下』にやる」「おれも若い頃やった。お前もやれ」が増えれば社会や組織はおかしくなる。 「おれが『上』から受けた恩を『下』に返す」「おれがやらされた下らないことは、お前はやらなくていい」が増えれば、良くなる。 綺麗事じゃなくて。
冒頭から、すごい。 「田原総一朗 鈴木宗男さんといえば、日本の政界では随一のロシア通です。いったい鈴木さんは、いつどこでプーチンと出会って仲良くなったんですか」 「仲良し」の独裁者を「人情家」だと力説する鈴木宗男も、すごい。 何から何まですごいが、このまま載せたのが一番すごい。 twitter.com/gendai_biz/sta…
私も昔、顔の左半分が完全に固まる顔面神経麻痺になった。 このスレにある通り早期のステロイド治療がカギで、私の場合、当時の上司の一言が完治につながった。 初期段階で医師に「入院がベストだが、通院でもギリギリなんとかなるかも」と言われ、仕事を抱えて迷っていた私に、上司はこう言った。 twitter.com/ryo384_ir/stat…
小学校3年のとき、クラスメートの女の子の誕生日のパーティーに呼ばれた。我が家は誕生日を祝う習慣がなく、誕生パーティなんてマンガでしか見たことなかった。 当時ちょっと好きだったその子は、両親と兄妹の4人家族でアパート暮らしだったのだが、少し変わった家庭だった。 テレビがなかったのだ。
正確にはテレビは押し入れにしまってあった。教育方針だったのだろうが、40年前はテレビ全盛期で、友だちとの話にもついていけなかったはずだ。 でも、その子は作文で「自分は本とバイオリンが好きだからテレビはいらない」と書いていた。実際、コンクール入賞などで朝礼で何度か取りあげられていた。
ちょっと好きな子の誕生日にお呼ばれしたのはいいが、問題はプレゼント選びだった。金欠だし、姉も妹もいないし、何を買えば良いかまったく分からない。 迷った挙句、チマチマと300円くらい貯めて、台所から持ち出したビニール袋いっぱいにフーセンガムやラムネ、チョコなんかの駄菓子を買っていった。
パーティ当日、ケーキとハッピーバースデーの歌の後、プレゼントの時間になった。みんな綺麗に包装されたキャラ入りのマグカップやペンケース、文房具なんかを持参していた。 そういうものなのか……。 ビニール袋に詰めた駄菓子が恥ずかしくて、逃げ出したい気分になった。
観念して「はい」と袋を差し出すと、大きな笑いが起きた。みんな、駄菓子詰め合わせを「ネタ」だと思ったのだ。 でも、その子は違った。ちゃんと顔色を見て、私が(やらかした…)と思っているのに気づいてくれた。 「ありがとう!すごい嬉しい。私が好きそうなお菓子、選んでくれたんだね!」
輝くような笑顔でしょうもないプレゼントを全肯定されて、バカなガキだった私は(え? 俺、ナイスなの!?)と素直に喜んだ。 その後、お礼のバイオリンの演奏があって、その子の手作りクッキーが配られた。 少女の機転で、私の誕生日パーティデビューは美しい(?)思い出になった。
ちょっと好きだった大人びた少女はしばらくして転校してしまった。 十数年後、某交響楽団でコンマスを務めているのを新聞で知った。転校時のお別れ会で弾いてくれたバイオリンが耳に蘇った。 いつか彼女のバイオリンをまた聞いてみたい。駄菓子をプレゼントしたアホな男子を覚えていてくれるだろうか。
こちらのnoteを再構成しました。 note.com/hirotakai/n/n2…
小学校からバスケ小僧で、高校時代は部活でバスケ漬けの日々を送った。県立の進学校の弱小チームで、私立の強豪校には歯が立つはずもなかった。 はずなのだが。 私の1つ上の学年はマンガみたいな「奇跡の世代」で、有力選手が偶然集まり、強豪私立といい勝負ができるほど強かった。
子どものころ、母は「ダルマをちょっとやるとよく寝れる」と寝酒にサントリーオールドを飲んでいた。 小学5年生の母の日の直前に、「ダルマを買ってやれば、母ちゃんが喜ぶのではないか」と思いついた。なぜか手元にまとまったお金があった。
近所のダイヤモンドシティ(ジャスコ)のスガキヤの隣の酒屋に向かったが、ちょっと良い酒屋に怖気づいて、なかなか店内に入れなかった。何度も前を通り過ぎた後、思い切って中に入り、小柄なひげ面のおじさんに声をかけた。 「あの、すいません。ウイスキーをください」
「ほう。お使いかな?」 「いや…あの…母の日のプレゼントに」 「おー!えらいねぇ」 おじさんの笑顔で緊張が少しほぐれた。 「お母さんはいつもどんなの飲んでるの」 「ダルマです」 おじさんが声をあげた笑った。 「よく知ってるね、そんな名前」
「そうか、そうか。じゃ、ダルマにする?」 私は少し考えて「ダルマより、おいしいのはありますか?」と聞いた。 おじさんも少し考えて「例えばコレはどう?」と選んでくれたウイスキーのラベルには、ステッキを持った変な格好の男が描いてあった。 (なんだコレ…カッコいいけど…)
「外国のウイスキーで、人気があっておいしいよ」 外国のお酒。なんだか凄そうだ。値段も手が届く範囲だった。 「じゃ、コレにします」 と答えてから、色違いのボトルがあるのに気づいた。 「赤いのと黒いのは、何が違うんですか」 「ああ、それは、まぁ…値段が違うね」
母の日に綺麗に包まれた箱入りのウイスキーを渡した。誕生日を含めてプレゼントなんてしたこともなかったから、母はとても驚いた。 包装をはがして、もう一度驚いた。 「ジョニ黒!」 それは、私が愛称を覚えた二つ目のウイスキーになった。 「こんな高いもん、どうしたの!?」
赤いラベルの瓶を手にしたおじさんが笑いながらそう言った。 「黒い方の方がおいしいですか?」 「かもしれないけど、ちょっと高すぎるよ」 記憶が曖昧だが、5000円以上したはずだ。 「こっちにします」 おじさんはうなずくと、「少しだけオマケしてあげよう」と細長い箱をラッピングした。
貧乏な高井家にジョニ黒が再びやってくることはなく、ダルマか無銘のブランデーが棚に並んだ。 大人になり、たまにジョニ黒を飲むと、それはウイスキー以上の味わいをもたらしてくれる。 少年の日に有り金はたいた舶来のウイスキーは、なんて安い買い物だったのだろう。 note.com/hirotakai/n/n7…
「ちゃんと買ったわ!お年玉、余ってたから」 絶句する母に、私は後にも先にも言ったこともない、歯の浮くような言葉を口にした。 「いつも、ありがとう、と思って」 母は無言のままだった。 「うまいらしいよ。コレでよく寝られるでしょ」 母は瓶を眺めて「ありがとう…大事に飲むわ」と言った。
蛇足ですが、実話です。 1980年代半ばのお話。