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「疲れ」を、若い間は「体が動かなくなるとき」と捉えがち。しかし私たち夫婦は「笑顔でいられない」と定義している。疲労は「笑顔でいられない」、「気力がわいてこない」、「体が動かない」の順番でやってくる。「笑顔でいられない」の段階で、実はすでに無理を重ねている。
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こういうことをすると、給料なんかもらわなくてもやってける金持ちしか国会議員になれなくなる。そして庶民の感覚が分からない政治家ばかりになり、政治を独占し、金持ち優遇の政策ばかり立てるようになる。橋下氏の主張は表面的には庶民の味方のように見えるが、ものの見事に金持ち応援、庶民虐待。 twitter.com/maq06193260/st…
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愛知県も大都市名古屋を抱え、一時期はたくさんの感染者を出したが、かなり沈静化してる。評価されてよいはずなのに、抑え込み切れていない他の大都市知事のようには評価されていない。むっちゃ地味。メディア受けしない実務派を評価しない現代の風潮はいかがなものか。
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「能力が高いように見せるのが上手」な人間、つまりプレゼンテーション能力ばかり突出して高い人間ばかり評価するとそうなる。「能力が低いように見えて意外に実務派」を発掘する趣味を私たちも持ちたい。みんなが騒いでるのに付和雷同するのはつまらない。
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扁鵲という医者が死にかけた王子の命を救った。「お前は天下一の医者じゃな」と王様がほめちぎると「兄の方が優れています。病が軽いうちにみんな治してしまうので医者としての名は近隣にしか知られていません」「ではその次にお前が」扁鵲は「いや、長兄はもっとすごいです」。
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「長兄は病気になる前にみんな原因を取り除き、誰も病気にならないので長兄が医者だと気づいている者はいません。私などは死にかけの人間を治すという派手なことをするから天下に名が響いてしまっていますが、医者としては恥ずかしいことです」。
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目立つパフォーマンスは評判になりやすい。しかし日本は昔から、黙々と実務にあたる人をいぶし銀として評価する文化があったはず。最近、その手の感じが薄れてるけど、その文化の復興をはかりたい。
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この人は天才だな、と思う研究者がいる。成果を次々に出して止まらない。その人の研究の仕方を見てると、二つの原則があるように思う。
①誰もやってないことをやる。
②結果が出そうなことをやる。
研究なら当たり前やん、という気がするが、案外この二つを両立させていないケースが目立つ。
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実験科学者として気になるのは、対照実験が「うがいをしていない」こと。適切な対照実験は「水でうがい」のはず。陽性率が下がったのは、イソジンによるウイルス不活性化ではなくうがいによる希釈の可能性が残されている。PCRは一定量以上のウイルスがないと検出できない。 nikkei.com/article/DGXMZO…
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何を聞いても泉のごとく知識があふれ出てくるベテラン農家さんに「何でもご存知ですねえ!さすがベテラン!」と言ったら「わし、まだコメは50回しか育てたことない。ベテランなんてよう言わん。毎年条件が違うし」と言われて、脱帽したことがある。
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今日の名言。
自己肯定感が低い=自己評価が高い
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日本の若者は自己肯定感が低い、というけれど、実は「自分は社会の中ですごいことをやり遂げるはずの人間だ」「特別な人間なんだ」という、脳内世間様に拍手喝采されるはずの高い自己評価に追いつかない自分の現実を目の当たりにして、自己肯定感が低いんじゃないか、という説。ああ、これ、納得。
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「こんなことできてすごいよね、将来はもっとすごい人になるのかな」という「ほめ育て」をされ、大人の期待に応えるビッグな人間に私はなるんだ、と、天井知らずに自己評価を高めて、いよいよいい年になってきて、現実の自分を突き付けられた時、激しく落胆する。「ほめ育て」の屁外の一つかも。
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今日出てきたもう一つの名言が「向上心はあるけど好奇心はないよね」。ああ!そう!
脳内世間様に拍手喝采されるため日夜努力する。すごい人間、能力の高い人間とほめそやされる脳内スターの自分。そうした向上心がとても強いけれど、自分のことにも身の回りにも自然に対してもさほど好奇心がない。
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ところが、脳内世間の評価なんか気にせず、自分という存在に、身の回りに、自然に対し好奇心があると、生きているだけで楽しい。世界を肯定し、その世界に生きている自分を肯定できる。こんな興味深い世界の中で、生きている自分も興味深い。好奇心があれば、生きているだけで自己肯定。
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高校を卒業してすぐ、母が倒れた。父によると死に病だという。家事は3人兄弟で回していたが、学校に通っている弟と比べると、私に少し負担が多めになる。受験勉強が思うようにできなくて、苦しんでいた。余命がないのなら、センター試験に特化し、高得点を見せて喜ばせてやろうとした。
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そしたら、かなり高得点に。幸い母親は死に病から脱出できたのだが、そのあまりの高得点でみんな勘違いした。しかし私は、二次試験の勉強にまで手が回っていなかったので、京大は無理だと感じていた。ところが誰も反対しないどころか、京大受けないのおかしいというので、結局受けた。案の定落ちた。
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すると、「京大に受かるかもしれない子」という目でチヤホヤしていた大人たちが、スーッと引いていったのが分かった。まあ、仕方ない。私としては、受験生でも家事から逃げなかったことに誇りを持ち、第二志望の大学に行くことにそれなりに納得していた。しかし両親は明らかに落胆。つらかった。
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翌朝、ベルが鳴ったので玄関を開けると、お向かいのおばあちゃんが。「あんた、お母さんが病気で倒れて大変やったのに、買い物から料理から家事を全部やって、本当によう頑張ったね。大学合格おめでとう。本当に、よく頑張ったね」と涙を流しながら、合格祝いを手渡してくれた。
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後で気がついた。「京大落ちたの。残念だったね」という人ばかりだったことに。母が病気で倒れて大変だったのを頑張ったね、という人は、ほかにいなかった。第二希望とはいえ、大学に合格したことはかわりないのに、「おめでとう」と言ってくれる人もほかにいなかった。お向かいのおばあちゃんだけ。
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お向かいのおばあちゃんだけは、「京大に合格するかもしれない子」などという、世間体的な、表面的なことで私を見ていなかった。母が倒れても、家事で手を抜かず、できる範囲で受験勉強を頑張った、素の私を見てくれていた。そのおばあちゃんのおかげで、私の心は救われた。
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その翌年、京大に合格した。みんな、チヤホヤしてくれた。けれど、その称賛の言葉は、全然響かなかった。それは私ではない、外側の殻、装飾をほめているだけのこと。お向かいのおばあちゃんのように、素の私を見てはいない。私は逆に、ものすごい空虚感を感じるようになった。
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「京大なんかに行くんじゃなかった」という鬱に近い状態が、3年近く続いた。外側しか見ない評価にうんざり。多くはないのだけれど、京大生であることを鼻にかけている同級生の存在も鼻持ちならない。お向かいのおばあちゃんが教えてくれた、「素」を見ることの大事さが忘れられなかった。
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素の自分を見てくれる人がいて、素の自分をそのまま受け入れてくれて、素の自分を好きでいてくれる。向かいのおばあちゃんが教えてくれた、人間にとって一番大切な関係を、高知のこのご夫婦は再び教えてくれた。素でつきあえるって、本当に大切だ。
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昨今語られる「コミュニケーション能力」に薄っぺらさを感じるのは、こうした原体験があるためだろう。今のコミュニケーション能力は、表面的に人に合わせ、盛り上がって見せる能力でしかない。しかも、ノリについていけない人間を排除する傾向がある。そんな排除的なものって、評価に値するだろうか。