ぼのぼの(@masato009)さんの人気ツイート(いいね順)

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「紅白を見たらロックが演歌のポジションに来ていた」発言があまりにバズっているので、もう少し歴史的なことからきちんと書いておく。そもそも「演歌」というのは、古い音楽のように思われているが、形が定まったのは1960年代。そして1970年代に全盛を極める。つまりかなり新しい流行歌。
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もう何度言ったか分からんが、最大の問題は人混みではなく「おしゃべり」だから。劇場であれ美術館であれ飲食店であれ、全て独りの行動で、誰とも会話せず、黙々と芸術鑑賞したり、飲食したりするだけなら、感染拡大などまずないはず。
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これは…あまりにも凄まじい。演劇に興味がある人は問答無用で必読。そうでない人も、読んで絶対損は無い。もちろんこれは一人の人間の視点に過ぎないが、間違い無くエンタメ業界の普遍的な闇を照らしている。 note.com/uzune/n/nd3fba…
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本当なら残念だが、同時にあそこまで頂点を極めた演技をしたら、もうやり尽くした感があるのだろうと納得もできる。 ケイト・ブランシェットが引退の意思を告白。故郷のオーストラリアで、ガーデニングを楽しみたいとも語る spur.hpplus.jp/celebrity/cele…
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『東京2020オリンピック SIDE:A』見る気は無かったのだが、いざ公開されると「予想と全く違う映画だ」という評判が次々と飛び込んできたため急遽見ることに。確かに直前までに予想されたような体制ベッタリ国威発揚映画とは対極にある作り。極めて純度の高い「河瀬直美の作家映画」になっている。
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凄いな。緊急事態宣言で変わるのは、本当にアルコールだけなんだ( ゚д゚)
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だから「演歌は日本人の心のふるさと」みたいな表現は、演歌の売りとなる部分を過剰に強調したキャッチフレーズのようなもので、実は日本古来の音楽でも何でもない。ただ、いわゆるヨナ抜き音階や、こぶしの回し方などは日本の伝統芸能に沿うもので、多くの人にとって親しみやすかった。
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そして考えればすぐに分かる通り、「60年代に確立し70年代に全盛を極める」という歴史は、ロックとそのまま重なる。そして日本の大衆音楽、とりわけテレビで流れる音楽としては演歌の圧勝。ロックはあくまでもオルタナティヴミュージックだった。
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今日の新聞に『ドライブ・マイ・カー』が歴史的快挙を果たした背景がいろいろ書かれていたが、濱口竜介自身のインタビューまで含め、皆が忘れている重大な要素が1つある。それはあの作品が「チェーホフの『ワーニャおじさん』をベースにした作品」であるという事実だ。 #ドライブ・マイ・カー
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その辺の状況を知らないと、山下達郎が「自分たちの世代が歳をとった時 演歌を聴かずに済むために音楽やっている」と言ったことの意味が分からないだろう。また、そんな半世紀前の価値観からアップデートされていないと「そもそもロック者は紅白などに出ない。出ているのは偽物だ」となるわけだ。
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私の元発言は、そんな歴史を知るが故に、「私の愛するロックも、かつての演歌と同じように老人向けの音楽となり、極めてニッチなポジションに収まるだろう」という感慨に満ちたものだ。
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日本人の歌うロックがお茶の間(死語)でも市民権を得たのは、いわゆる「ニューミュージック」が人気を獲得した70年代の終わりから。その点で、テレビに積極的に登場したサザンオールスターズやゴダイゴらの果たした歴史的役割はきちんと再評価されるべきだ。
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何と!あの名作『ピナ』が無料公開中。残念ながら字幕は英語すらつかないが、未見の方はヴッパタール舞踊団パフォーマンスだけでも必見。ちなみに監督はヴィム・ヴェンダース。  ardmediathek.de/daserste/video…
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『すずめの戸締まり』という映画の公開は、仮にそれがどんな名作であったとしても、劇場公開映画の多様性を焼け野が原にしてまう暴力性によって、もはや憎しみの対象でしかない。もちろんそれは映画そのものの罪ではなく、興行サイドの問題なのだが。
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リスナーも演奏者も含めて、とりあえず「ロック者」としておくが、これによって演歌はロック者の仮想敵となる。ロック者から見た演歌は、「保守反動」「音楽的退化」「それでいて大衆には受ける」という敵対要素満載だったから当然だ。つまりは政治における右派と左派の対立みたいなもの。
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結果 世代交代で演歌のマーケットは縮小し、今はロックがそのポジションに来ているわけだ。今後、古典的なロックは、ファンの高齢化と死去に伴い、演歌がたどったのと同じ道を歩み、マーケットはますます縮小していくことだろう。
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しかし昨日の紅白を見ていると、「ロック」が完全に昔の「演歌」のポジションに来たなということが分かる。少し前ならそれは自嘲や危機感だったが、もはや単なる事実として。
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前に述べたように、反骨精神のようなものは、別にロックの専売特許ではなく、さまざまな大衆音楽にあるものなので、「ロックとは音楽ではなく生き方のこと」といった精神論は、私にはどうでもいい(それ、無理にロックと呼ばんでもいいだろう…)。ロックとはあくまでも音楽のスタイルだ。
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70年代中盤までのロックは、日本ではとんがった若者の音楽だったし、「日本人のやるロック」などまだヨチヨチ歩きの状態。一般人気でははるかに及ばない。そのルサンチマンもあって、ロック者は演歌を撲滅すべき敵とみなした。もちろん紅白の出場歌手は演歌と歌謡曲が大半だった。
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それでも演歌のファンはずっと演歌を聴いていたので、80年代になっても演歌は元気だった。ただロック/ニューミュージックのアーティストが、当然のことながらファンと一緒に歳をとり、それに見合う音楽を作るようになったため、それらの音楽で育ったファンがあえて演歌に移行することもなかった。
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最近の若者は、配信によって古い音楽も新しい音楽も一緒くたに聞くため、意外と古い音楽について詳しいという話はよく聞く。それは事実だろうし、プラスマイナスで考えればプラスの方が大きいだろう。
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だが、そのような聞き方をすることで、音楽の歴史的な文脈に無頓着になるという弊害はありそうだ。それによって取りこぼされる貴重な情報も少なくないと思う。
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山下達郎というのも本当にルサンチマンにまみれた人なのだが、彼の場合それがおかしな方向にねじれることなく、「音楽の力だけで有無を言わせないようにする」という方向に向かったことで、あれだけ磨き上げられた音楽を作り上げたのだから立派なものだが。
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自身はテレビに絶対出ない山下達郎が、ジャニーズのアイドルにバンバン曲を提供するのは、彼が(音楽的に)敬愛するフィル・スペクターのやり方を知っていれば特に不思議はない。
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ただこれは「レコード」という記録媒体が発明された時点で、すでに起きたこと。我々の大半は、当時の歴史的文脈など知らないままクラシックに耳を傾けるし、その地の文化など知らぬままワールドミュージックを聞くこともある。それに比べれば、まだマシな方か…