よくアカデミズムを引き合いに出すことに対して「権威主義的だ」という声も聞くのですが、「権威の有無」とかではなく、対象を論じる際には正当化可能なアプローチがないと議論自体が空中分解してしまうので、そうした「手続き」的な部分をちゃんと整備・準備した方が良いよねという意味で言っています
学術研究には「対象を精緻に研究する際のアプローチ」が豊富に蓄積されていますので、まずはそこから手段を学んだり、自身の研究手法を吟味したりする方がよほど建設的だし、確実だろう……という趣旨です。 (その際、「哲学研究」というのは対象を分析する際の一つのアプローチでしかありません。)
あとは「アカデミックな作法」には「議論の仕方」も該当すると思っています。これに関しては現場で訓練を積むしかないと思っていて、それを集中的に行える空間が大学や大学院などでのゼミだと思います。もちろん、研究者と共に行う研究会や読書会に参加することで、そこでも訓練を積むことができます。
結局のところ、いかなる研究活動も一人だけでは絶対にできないので、様々な知識や知見を持ち寄ったり、建設的な批判・フィードバックを与え合えるような議論の場を作り、守っていくことが大切なのだと思います。 そうした意味で、私は一緒に読書会をしてくださっている方々にいつも感謝をしています。
最近は「抽象的な」という言葉が単に「曖昧な」という意味で使われ過ぎていると感じるので、自分は「抽象化された」という言い回しを用いるようにしています。「抽象化された」文章は必ずしも「曖昧」ではなく、むしろ明晰に論理構造を示してくれていることの方が多いからです。
学振に採択されず、心が折れてしまい、中には哲学研究者の道を諦めてしまう人たちがいる。方や、ろくに哲学の論文も書かず、謎のメディア露出を繰り返し、社会的に「哲学研究者」として認知されて仕事を稼ぎまくる人がいる。僕がしばしば後者を批判するのは、そこに圧倒的な理不尽さを感じるからです。
哲学には「考えすぎ」という病を治療する役割があるかもしれません。ただ、「考えすぎ」の病を克服するためには、それと同じか、それ以上に考えすぎる必要があると思っていて、結局「哲学とは自己治癒である」と言ったところで、一体何が「毒」で何が「薬」なのか、分かったものではないなと思います。
(つまり、「また相手を論破してしまった」という間違った自己認識をその人は獲得する、ということです。)
昨今の話題を観ていると、「論破」というのは「自分の議論の脆弱性を絶対に認めない」という態度を固持し続けた人が最終的に獲得する自己認識なんだろうなぁと思います。どれだけ無理筋のことを言っていても、自分に都合の良いファクトだけを持ち出して絶対に立場を譲らない。まさに悪徳だと思います。
そもそも、アカデミズムの世界においてすら、提出されるテーゼは常に「仮説的」なものであり、その後の批判に身を委ねるものです。それが知的な誠実さです。それは、社会が健全に回っていくために決して失われてはならない徳であると考えています。人々が、まず学問に耳を傾ける社会になりますように。
フッサール研究者の富山豊さんから、博士論文を基にしたご高著『フッサール 志向性の哲学』をご恵贈いただきました。 もしかしたら、プロによる哲学書の「あとがき」でVTuberの名前が出てくるのは史上初かもしれません。 角巻わためさんの楽曲「My song」は、哲学研究の世界にも響いていたのですね。
哲学若手研究者フォーラム編『哲学の探求』第50号にて、「VTuberの哲学」をテーマにした論文が掲載されました。 昨年八月に公開された『フィルカル』論文の直接的な続編になります。 無料で閲覧可能ですので、VTuberに関心のある方は、是非ご一読してくださいますと幸いです。 wakate-forum.org/data/tankyu/50…
最近にじさんじの剣持刀也さんが「NIJIDERO」配信の中で「今や皆様がこのバーチャルな世界に来るだけの時代は終わり、我々がそちら側[リアル世界]に遊びに行く時代になった」と仰っていて、VTuber史的にも大変示唆に富む証言だと思いました。 「歴史を語りつつ、歴史を紡ぐ存在」なのだと感じます。
これは本当に自戒の念を込めて言うのですが、あんまり、頑張りすぎない方が良いと思います。人より二倍、三倍頑張ってしまうと、いつしか「どうして自分は他の人より二倍、三倍評価されないんだろう」という感情が増えていきます。そして、納得できない人が評価されるのを見て、しんどい思いをします。
僕の友人(博士課程)が翻訳を担当したのですが、半年経っても約束されていた報酬が支払われず、その件について問い合わせても全然返信がなく、挙句の果てに突然「原稿の確認をお願いします。二日後までに」という連絡を受け取るという始末。 まるで大学院生を搾取するような構造に憤りを隠せません。
出版不況の中、学術系の出版社も大変な状況なのだとは思うのですが、僕の友人も生活に余裕がない中で、大変な時間とコストをかけて翻訳を担当したわけなので、せめてそうした人へ最低限の敬意を払ってほしいと思います。 (担当者の方は、他の先生にはすぐに返信のメールを返していたそうです。)
そもそも、「二日後までに○○についてやっといてくれる?」なんて、普通は友達にすら言いません。 相手を対等な存在として見ていないのだなと感じます。
現在大学でのVTuber論の講義準備をしているのですが、リスナーの皆様の中で、「大きな見た目の変化を伴うモデルの変化」の事例をご存知の方はいませんか? 例えば、にじさんじの花畑チャイカさんや深層組の小城夜みるくさんなど、こうした大きな変化を持つVTuberの方を教えてくださいますと幸いです…