何かの専門を極めている人は本当に魅力的に見えます。そういう人たちは、大抵自分たちのスキルと結びついた「特殊な現実の認識方法」を持っているので、そういう人たちから話を聴けるのがとても楽しいんです。 極限まで専門性を深めた人は、常人とは全然違う「世界の見方」をしてるんだと思います。
これは本当に声を大にして言いたいのですが、もし研究活動の中で大学教員から抑圧的・暴力的な言動(人を小馬鹿にしたり、揶揄するような言動も含む)に直面したら、すぐに信頼のできる別の大学教員の方にご相談されることを強くお勧めします。大学という世界は権威の塊みたいなところがありますので、
これからの時代は「とにかく知識を蓄える」ための知性よりも、「目の前に提示された信頼性不明の情報を“知識”として受容して良いのか否か」を判断できるような知性の方が重要になってくると思います。なので、「出典や整合性を確かめる」という“研究者的な発想”は社会にとって非常に有用だと思います。
だから、「クイズ王」的な知識披露型のエンタメ番組よりも、「これはどこまで信頼できる情報なのか?」、「本当にこの議論は論理的に筋が通っているのか?」といったことを「推論」・「推理」するような番組が制作された方が、これからの時代に求められる思考力にマッチするように思います。
今年の哲学若手研究者フォーラム(7/23-24)にて、「VTuberの哲学」をテーマにした発表を行います。 日頃「実在」や「虚構」について考えている哲学研究者にとっても、「VTuber」は非常に特異な在り方をしている存在者です。本発表では様々な事例を扱いつつ、VTuberの存在論的身分について検討します。
こちらの加賀美ハヤトさんの「質問力」、実際の哲学の学会でも通用するレベルですので、学会の質疑応答の仕方に悩んでいるという方がおられたら、是非こちらを参考になさってください! 【Ib リメイク版】実は前情報一切ナシです。【にじさんじ/加賀美ハヤト】 youtube.com/clip/UgkxLKllr… #加賀美ハヤト
大学院六年目になって痛感することは、締め切り等で追い込まれた時にこそ、しっかりお風呂に入り、しっかり睡眠を取り、しっかり外の空気を吸うことが大事だなということです。散歩とかしましょう。作業部屋のPCの付近はきっと魔界になっているでしょうから、気持ちをリセットすることが大事です。
去年初めて大学の非常勤講師のお話をいただき、すごく長い時間をかけて諸々必要な書類を準備してご返信のメールをお送りしたら、相手方の先生から「すみません、非常勤講師の経歴がない方にはお願いできません」というご返信を受け取って以来、最初の非常勤講師は運ゲーだなと思うようになりました。
査読論文の投稿とかで準備が無に帰する(=査読に通らない)とかは、自分の実力が原因だと思えるのでまだマシなのですが、「大学の非常勤講師をするためには大学の非常勤講師歴が必要」みたいなシステムを出されてしまうと、「まぁ運とコネだよね」としか思えなくなるんですよね。所属研究室ガチャ。
哲学を学ぶ中で一番面白さを感じる瞬間は、「その発想はなかった」と本気で思える時です。例えば問い方。日頃漠然と考えて済ませてしまっている事柄を鋭く問う文章を読むと、常識が揺らぎ始めます。そして論じ方。新しい概念と共に思考のフレームワークが拡張すると、世界の見え方がまるで変わります。
社会学の人が(専門というわけでもない)メルロー=ポンティの議論を参照しながらサブカル文化の分析を行うという論文を読んだのですが、ポンティの議論をほとんど具体的に解説せず、彼の引用をそのまま切り貼りして自分の議論を進めていくという最もやってはならないことを論文でやっていて辛いです。
しばしば「哲学なんて何の役に立つんだ」と言う人がいます。ですが、この世の醜いことも、美しいことも、それを明晰に言語化する人がいなければ、「その時何が起こったのか」を正確に理解することはできません。 物事の理解のレベルを根本的に上げるためにこそ、哲学の営みは必要だと考えています。
私は、自分自身を応援すれば良いにもかかわらず、自分以外の存在を応援することによって、かえって自分の人生そのものが生き生きとする現象に非常に大きな興味を抱いております。究極の利他は利己主義に帰結するというのでしょうか。いずれにせよ、それは「推し」という概念の究明に役立つはずです。
よく「対話が大事です」と言うと、「じゃあ相手を否定しないんですね?(全肯定するんですね?)」と言葉を返されることがあるのですが、そういうわけではありません。私たちには疑問文があるので、否定と肯定の二者択一に陥る必要はないのです。 「問い」こそが対話を公正に回す原動力だと思います。
ご報告です。VTuber専門情報誌『VTuberスタイル』さんの八月号から「「VTuber文化」を哲学する」という連載記事を担当させていただくことになりました。具体的な事例を用いつつ、「VTuberの哲学」の研究成果を、毎月皆さまにお伝えしていきたいと思います。 ぜひお手に取ってくださいますと幸いです。
哲学を学んで得られたことの効用の一つとして、「理解のできない点を明確に理解できる」というのがあります。哲学を学ぶと、相手が用いる一つ一つの概念に注意深くなれるので、「どの言葉が曖昧だから話が理解できないのか」を比較的明確に理解することができます。これは有意義なスキルだと思います。
VTuberのリスナーの方へ。 もしよければ、皆様の【VTuber文化を知ったキッカケ】を教えていただけませんでしょうか? 近々「VTuberの哲学」について解説するイベントがあるので、参考として皆様の体験談を聞かせていただけたらと思いまして… ご協力してくださる方はリプしてくださいますと幸いです。
昨日の懇親会の場で特に共感したのが、「本気でVTuberを追うと2人くらいしか観れない」というチームメンバーの一言でした。気づいたら10時間分くらいアーカイブが溜まっているのを全て観るのは、1人だけでも簡単ではありません。 「配信を追う」ということの困難さについて、昨日は盛り上がりました。
大学院に進学された方は、「自分なんかが発表したら迷惑じゃないか」とか、「恥かいて終わるんじゃないか」と遠慮せずに、とにかく発表の機会があるなら一度申し込みをしてみることをお勧めします。締め切りができると人は動けますし、とにかくこういうのは「最初の一回」がめちゃくちゃ重要なので…。
ZOZO NEXTさんの「FASHION TECH NEWS」にて、「VTuberの哲学」をテーマにした記事を執筆しました。今月末に刊行される査読論文の内容をさらに膨らませています。事例としてたくさんの動画をご紹介したので、VTuberを知らない方でもおそらく面白く読めるかと思われます…! fashiontechnews.zozo.com/research/hirok…
ご報告です。本日、『フィルカル』にてVTuberに関する哲学の査読論文が刊行されました。「VTuberの哲学」をテーマにした査読論文は、少なくとも国内では初めてです。(二名の大学の先生方に査読をしていただきました。)VTuberのリスナーの方や、哲学に関心のある方に是非読んでいただきたく存じます。
この機会にはっきり言うと、私はVTuberを「キャラクター型」と「パーソン(中の人)型」の二つに分けるみたいな議論には反対です。なぜなら、普通「キャラクター型」の代表格は「ゴールドシップ」や「麻宮アテナ」のような存在であり、「中の人型」の代表格は「ガッチマンV」のような存在だからです。
人に研究内容の質疑やフィードバックをするときに、異常なほど強い言い方をする大学教員の人を知っているのですが、あれもいつかパワハラなどで問題になるんじゃないかなと思っています。 「内容が妥当ならどんな言い方をしても良い」みたいなの、本当に無くなった方が良いと思っています。
最近驚いたことの一つとして、「批評」という言葉を「筆者の人格を揶揄したり中傷しながら重箱の隅をつつきまくる(それによって粗を探す)」という意味で理解している人が一部いるみたいなのですが、これ、どういう文脈でこういう使い方をする人たちが現れちゃったんですかね…。一体何の影響なのか…
インターネットカルチャーにどっぷりつかっている人がフリーダムに議論するというのは(明らかな人格否定を伴っていなければ)良いと思うのですが、何らかの対象を精緻に論じたり研究するという時には、アカデミックな作法に則るのが通例なので、そのあたりのギャップは埋まった方が良いなと思います。