「自分の意見を主張すること」よりも「相手の話を聴くこと」の方がよっぽど難しくて集中力も使うので、義務教育の段階から「小論文」とかで自分の意見を書かせるよりも、哲学対話の時間を導入して「問いかけ」を通して「他者」とコミュニケーションを取るという訓練をしてもらった方が良いと思います。
@MintoTsukino 苦手だなって思うのは人の自由だとは思うのですが、目の前に僕がいるんですし、せめて言葉は選んで欲しかったですね… (料理を作ってくれた人の前で「マズ!?」って言うのか!? という感じです。。)
大学院六年目になって痛感することは、締め切り等で追い込まれた時にこそ、しっかりお風呂に入り、しっかり睡眠を取り、しっかり外の空気を吸うことが大事だなということです。散歩とかしましょう。作業部屋のPCの付近はきっと魔界になっているでしょうから、気持ちをリセットすることが大事です。
これは本当に自戒の念を込めて言うのですが、あんまり、頑張りすぎない方が良いと思います。人より二倍、三倍頑張ってしまうと、いつしか「どうして自分は他の人より二倍、三倍評価されないんだろう」という感情が増えていきます。そして、納得できない人が評価されるのを見て、しんどい思いをします。
去年初めて大学の非常勤講師のお話をいただき、すごく長い時間をかけて諸々必要な書類を準備してご返信のメールをお送りしたら、相手方の先生から「すみません、非常勤講師の経歴がない方にはお願いできません」というご返信を受け取って以来、最初の非常勤講師は運ゲーだなと思うようになりました。
学振に採択されず、心が折れてしまい、中には哲学研究者の道を諦めてしまう人たちがいる。方や、ろくに哲学の論文も書かず、謎のメディア露出を繰り返し、社会的に「哲学研究者」として認知されて仕事を稼ぎまくる人がいる。僕がしばしば後者を批判するのは、そこに圧倒的な理不尽さを感じるからです。
よく「対話が大事です」と言うと、「じゃあ相手を否定しないんですね?(全肯定するんですね?)」と言葉を返されることがあるのですが、そういうわけではありません。私たちには疑問文があるので、否定と肯定の二者択一に陥る必要はないのです。 「問い」こそが対話を公正に回す原動力だと思います。
私は、自分自身を応援すれば良いにもかかわらず、自分以外の存在を応援することによって、かえって自分の人生そのものが生き生きとする現象に非常に大きな興味を抱いております。究極の利他は利己主義に帰結するというのでしょうか。いずれにせよ、それは「推し」という概念の究明に役立つはずです。
哲学研究者の観点から、「抽象的・本質的な問い(簡単に答えが出せないような問い)」に向き合うための独学の方法論について書きました。 本書の中で、「対話の方法」(「対話的思考」)についての議論も行っております。 全国の書店に並ぶと思いますので、ぜひお手に取っていただけますと幸いです。
本日付で東京大学大学院メタバース研究科の特任研究員に着任しました。担当する講座は「VTuberの哲学」です(通年かけて「にじさんじ・ホロライブの比較文化思想」の講義を行います)。 今後は僕自身もVTuberとして研究活動に尽力してまいりますので、チャンネル登録のほどよろしくお願いいたします!
昔、僕が修士一年の頃に日本哲学会で「査読に通る論文の書き方」というワークショップが開かれていたのですが、あれは本当に勉強になりました。「テクニックばかり磨くな」という声があるのも知っていますが、「伝わるように論理的な文章を書く」というのは、研究者において重要なスキルだと思います。
哲学には「考えすぎ」という病を治療する役割があるかもしれません。ただ、「考えすぎ」の病を克服するためには、それと同じか、それ以上に考えすぎる必要があると思っていて、結局「哲学とは自己治癒である」と言ったところで、一体何が「毒」で何が「薬」なのか、分かったものではないなと思います。
読書会をする時に一番大切なことの一つは、「分からないことを分からないと言っておかしくない空気を作る」ことかもしれません。そのためには主催者が率先して「初歩的・基本的な問い」を参加者に投げかけていくのが良いと思います。「これ質問できない雰囲気だ」と思われてしまうと、問いが出ません。
哲学を学ぶ中で一番面白さを感じる瞬間は、「その発想はなかった」と本気で思える時です。例えば問い方。日頃漠然と考えて済ませてしまっている事柄を鋭く問う文章を読むと、常識が揺らぎ始めます。そして論じ方。新しい概念と共に思考のフレームワークが拡張すると、世界の見え方がまるで変わります。
インターネットカルチャーにどっぷりつかっている人がフリーダムに議論するというのは(明らかな人格否定を伴っていなければ)良いと思うのですが、何らかの対象を精緻に論じたり研究するという時には、アカデミックな作法に則るのが通例なので、そのあたりのギャップは埋まった方が良いなと思います。
すでに法学の観点からの「VTuber研究」は行われていて、「VTuberの方への誹謗中傷はいかなる意味で人格権の侵害に該当するのか?」という問いが学術論文の中で問われています。 ですが、こうした研究と共に、「VTuberの存在」を理論的・体系的に説明する理論を哲学の側でも出していく必要があります。
まだ五年しか大学院にいませんが、どうやらアカデミズムには、「業績をたくさん出している研究者ほど凄い」という言説と、「業績のことなんてこれっぽっちも考えない研究者ほど凄い」という言説、両方あるようです。 そしてどちらのスタンスを取っても、必ず反対側の先生に怒られるのがつらいですね。
これは定期的に言っているのですが、大学院生は時間的な制約があまり無いので、どんなペースで研究活動をしていけばよいのか、目安を見失いがちです。そういうときには、「学会発表」や「論文投稿」という具体的なペースを作っていくと良いと思います。 締め切りに追われた人間は強いです(実体験)。
出版不況の中、学術系の出版社も大変な状況なのだとは思うのですが、僕の友人も生活に余裕がない中で、大変な時間とコストをかけて翻訳を担当したわけなので、せめてそうした人へ最低限の敬意を払ってほしいと思います。 (担当者の方は、他の先生にはすぐに返信のメールを返していたそうです。)
そもそも、「二日後までに○○についてやっといてくれる?」なんて、普通は友達にすら言いません。 相手を対等な存在として見ていないのだなと感じます。
よくアカデミズムを引き合いに出すことに対して「権威主義的だ」という声も聞くのですが、「権威の有無」とかではなく、対象を論じる際には正当化可能なアプローチがないと議論自体が空中分解してしまうので、そうした「手続き」的な部分をちゃんと整備・準備した方が良いよねという意味で言っています
社会学の人が(専門というわけでもない)メルロー=ポンティの議論を参照しながらサブカル文化の分析を行うという論文を読んだのですが、ポンティの議論をほとんど具体的に解説せず、彼の引用をそのまま切り貼りして自分の議論を進めていくという最もやってはならないことを論文でやっていて辛いです。
現在大学でのVTuber論の講義準備をしているのですが、リスナーの皆様の中で、「大きな見た目の変化を伴うモデルの変化」の事例をご存知の方はいませんか? 例えば、にじさんじの花畑チャイカさんや深層組の小城夜みるくさんなど、こうした大きな変化を持つVTuberの方を教えてくださいますと幸いです…
ご報告です。VTuber専門情報誌『VTuberスタイル』さんの八月号から「「VTuber文化」を哲学する」という連載記事を担当させていただくことになりました。具体的な事例を用いつつ、「VTuberの哲学」の研究成果を、毎月皆さまにお伝えしていきたいと思います。 ぜひお手に取ってくださいますと幸いです。
VTuberのリスナーの方へ。 もしよければ、皆様の【VTuber文化を知ったキッカケ】を教えていただけませんでしょうか? 近々「VTuberの哲学」について解説するイベントがあるので、参考として皆様の体験談を聞かせていただけたらと思いまして… ご協力してくださる方はリプしてくださいますと幸いです。