ふるたか(@furutakatoyo)さんの人気ツイート(リツイート順)

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第一次大戦のチンタオでのドイツ人捕虜に日本の収容所敷地の草刈をさせたら、まず最初に縄を張って区画をわけ、各班で担当を割り振って最終的に完全にやりきって驚いた。 って読んだなぁ
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日露戦争中に「金州丸」という輸送船が撃沈されて、乗船していた歩兵一個中隊がほぼ壊滅という事件があったのですが、当時の記事を読むとその名簿中に私の曽祖父の名前が! しかし曽祖父は生還しているのに同生存者中に名前が無く…戦死扱いに??? そこで気になって少し調べてみました・・・続く
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戦前のマスクを作ってみました。 俗にカラスマスクと言われるような系統のタイプで、こちらは中でも牛革と別珍を組み合わせた当時としてはなかなか上等な物です。 当時は防塵や防寒目的での利用も含め軍民男女問わず使われておりました。
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今日見つけてきました江戸時代頃と思われる非常に変わったデザインの道具です。 使い道は…私は箱書きが無ければ見当もつきませんでした。両面同じようなデザインになっていて中央がくぼんでいます。 素材などノーヒントでこれが何かわかる方はおられますでしょうか…??
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これは明治37年11月28日、旅順要塞二百三高地攻撃に際して第一師団の一兵士が携帯していた財布と小銭なのですが、銃弾が直撃しています。 「間一髪であぶなかった~!」 と、いうようなわけには行かなかったようで、持ち主は2発の盲貫銃創を受け野戦病院に運ばれています。後生還。
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日本軍の航空隊の関係者が廃品となった航空機のアクリル製風防から作ったと思われる飛行機の模型 風防製のアクセサリーは元が風防なだけに平面的な物が多いのですが、こちらは積層して立体的に作り磨き上げた中々の力作でおそらく作者が関わったであろう陸軍の二式戦闘機「鍾馗」を模しているようです
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訪日中の香港の友人たちが富士山に登ったというので私の祖父の写真を。 昭和16年11月12日西富士演習場で撮影 この写真にはある秘密があるのですがほとんどの方は気づかれないと思います。(私も祖父に教えてもらうまで気づきませんでした。)
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大戦末期、陸軍の兵隊が下士官に 「お前、この戦争勝てると思うか?」 て聞かれて、本音も言えず答えに窮したので 「○○殿はどうお考えですか?」 て返したら 「…お前と同じ考えだよ!じゃぁな。」 って去っていった。 そんな話ありましたね。
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「此の次からは立派な品物をドシドシ皆さんのために作るつもりです」 終戦後に大量に市場にあふれた軍用被服を解体して作られたランドセルにあった一文。 まさに「泣きの一手」ながら、ほどなく倒産した模様です 汗
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以前このスケッチを見つけた時 「尾翼などに標識が描かれていない」→おそらく防諜を要する戦中 「新鋭機で現物を見て描いてるぽい」→現物を描いてよい立場 「腰を据えてそつなく描いていてる」→許可を得た従軍画家以外無理では と判断して購入したのですが果たしてやはりそうだったことがあります
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だいぶ前に調べたことなのですが、教科書や歴史本だと「神風のおかげ」という見解は戦前よりも戦後以降のほうが強かったような。戦前期までは案外正確に書かれていました。 勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASK14…
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「改良服」の雛形。 改良服は明治後期以降に一時隆盛した和服の改良案の一つで、少女向けに袴と一体式のワンピースのようになったものが多くこれもその一例です。 改良服は一部の学校では制服として採用されています。(写真2の例は山形の酒田高等女学校の生徒で縞の着物が改良服そのものです。)
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お正月は趣味のものを…。日本軍の「箱詰爆薬」を仕様書と現存品(よく現存してるなと感心しますが…)から製作。10kgの爆薬を充填し、戦車の底部等に投げ入れ爆砕するもの。 映画「沖縄決戦」にも登場しますが、監督の岡本喜八自身がかつて軍人時代に受けた教育そのままに用法を指導されたそう。
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コロ助についていつも思うのが、 「茶せん髷」 「朱鞘」 「長い鞘の先に滑車」 という歴史上または巷説で語られるカブキ者のイメージからネタを引っ張ってきているであろうにも関わらず、それを講釈も無しに一目見て可愛い、というところに収めてある藤子先生のデザインは素晴らしいということ。
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さわやかな青春映画のような一葉で、「丘を越えて」の世界ですね。 昭和13年頃、信州安曇野の女学生3人組です。 どんな毎日を過ごしておられたのでしょうか。
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麻脚絆が材料到着待ちとなりましたので明治陸軍の冬襦袢も試作してみました。 販売用試作で生地は当時と同じものは困難なため今回は薄手生地としています。サイズは当時の大号、出来れば中号も予定。 またそのうち夏襦袢も作りたいところです。
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白百合学園の百周年記念誌を読んでいると 「和服から洋服になった時、生徒は涙を流していやがった。」 とありました 現代から見ると当時の洋装はさぞお洒落だろうハイカラだろう、と見てしまいがちですが、そういう見方ばかりではないのが当事者の気持ちの一端のようで他にも同様の話があります
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Q 当時、猩々皮の陣羽織を着た22,3歳の面長の美男子の首を取ったのですがどなただったのでしょうか? A その陣羽織を着た物は200人以上居たけれど討死したのは4,5人でおそらく宇佐見三拾郎殿でしょう 。 大坂の陣から30年後、豊臣方で戦った自身の戦功確認を敵方とした往復書簡の写し
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昭和11年に発生した226事件の直前に不穏な動きを察知した陸軍が山下陸軍少将宅を盗聴録音した音源が残っているんだけど、家族の女性の通話もあり「~でごザーマスでショ。」といった当時の山の手言葉の日常が記録されていたのが興味深い。
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知人の地元に「はらしょうさん」と呼ばれていたおじいさんが居て、きっと原田正一さん的な本名だろうなとずっと思っていたところ、ある日知った本名が全く違っており、家族に尋ねたところ 「あの人は抑留帰りでよくロシア語で「ハラショー」と言ってたのでハラショーさんなんだよ」と言われ驚いたそう
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支那事変期の慰問品に人気だったという「森永スマートドロップス」と「森永ドロップス」 人気というのは味もさることながら重宝されたのはその空き缶。 スマートドロップスはタバコがちょうど入り変形と水濡れ予防に、丸缶のドロップスは油が染みた銃手入れ用の裁断布入れに都合がよかったという
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捨てられるゴミを大事な物だと考えて、バカにされようと対価を払って数十年も引き取り続けていた人がいて、ある日誰かに 「そのゴミには価値があると判った!貴方にはふさわしくない。こちらに寄越せ!」 と言われたら 「何を今さら」 と呆れ果てるのではないでしょうか。news.yahoo.co.jp/articles/324f2…
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今でもそうですが、身体、精神の障害って見た目で判るとは限りません。 特に情報伝達の手段が限られた昔は親族、近隣住民同士でも様々な局面で挨拶回りしないと誤解される部分は今以上に大きかったのではないでしょうか。
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普通の手紙も含めてまとめて数百通以上あるのですが、やはりノートの切れ端も多くそっけないものは花や星、イラストでデコレーションしてみたり色々なパターンが伺えますね。 紫の物は卒業時に書き合ったサインブックで、級友のメッセージとして各人の好きな物、嫌いな物などが書かれています。
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茨城県水戸市大町にあった水戸高等女学校の生徒用バンド こちらは大正6年制定の物で、海老茶色の袴とあわせた制服姿は同校のシンボルとしてあこがれの対象であったようです。洋装化は大正14年以降であったとか。 長らく現物を見てみたいと思っていたのですがご縁があったようです。