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政府が4月1日に言い出した「布マスク全戸配布」の配布状況が、ちゃんと厚生労働省のサイトで公開されているのを、皆さんはご存知だろうか。まだご存知なければぜひご覧になるといいですよ、衝撃の事実が明らかになりますから。
mhlw.go.jp/stf/seisakunit…
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東京都以外、全て「準備中」って。
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「小説や物語は読むかい?」と聞くと「読まない」という。では「家に文字だけの本はあるかい?」と聞くと、やはり「ない」という。さらに確認してみると、家には「マンガ日本の歴史」のようなものが数タイトルあるだけだという。それを聞いて、僕はこれまで彼の見ていた世界を想像して、背筋が凍った。
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塾で教えていて、わりと衝撃的だったことの一つが「国語の教科書以外で、まとまった文章を読んだことがない子」の存在を、リアルに目の当たりにしたときのことだ。当時、その生徒は中学二年生だったが、計算問題以外は壊滅的で、その理由を探していたときに、ふと思い至って本人に確認をしてみた。
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さらに僕はこう聞いた。
「もしかして、国語で文章を読むときに、どこかに『正解』が書いてあるはずだとしか読んだことがないのかな?」
返事は、予想通りだった。
「はい」
そうなのだ。彼にとって「言葉」とは、ただただ「正解の言葉」と「間違いの言葉」の二種類しかなかったのだ。
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その生徒は、間違いだと指摘されることを異様なまでに嫌う子だった。間違いだと言われた瞬間に、嫌悪感を露わにしたし、そのまま塞ぎ込んでしまい、その後しばらくは誰の言葉も耳に入らないような状態になった。ときに身体を震わせ、怒りなのか悔しさなのか、爪を立てるなど自分の体を傷付けさえした。
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その生徒にとって「言葉」であり「文章」というのは、極端な言い方をすれば、どこまでいっても「意味」を持たないものだったのだ。ただひたすらに、周りの反応から「正解」だと認めてもらうために並べ立てるためのものでしかなかったのだ。「自分のため」の言葉を、何一つ持っていなかったのだ。
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何度かその生徒に「今の気持ちを何か言葉にできるかい?」と聞いたこともあったが「何かぐちゃぐちゃしている」というのが、お決まりの返答だった。それもそのはずで、なぜなら彼は自分の感情を表したり、理解したりするための「言葉」を、ただの一つも持ち合わせていなかったのだ。
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つまりその生徒の中では、言葉は彼の周りの世界の何にも結びついていなかったのだ。誰かに「正解」か「間違い」かに振り分けてもらうことでしか、彼は自分の発した言葉を理解できなかった。そして彼にとって「間違い」は許されないことであり、また自分を「ぐちゃぐちゃにするもの」でしかなかった。
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この話は極端な事例だと思うけれど、これに近いことが今の教育の現状ではわりと頻繁に起こっているのではないかと、僕は感じている。「空気が読めるか否か」というのも要するに、言葉そのものの意味によってではなく「その場の雰囲気に正解することができるかどうか」でしかないのかもしれない。
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「文章が読めない」という話は、特にこのTwitterでは決まり文句のように頻繁に見かける話題だ。その原因の一つはもしかしたら、程度の違いこそあれ、このスレッドでお話した生徒のような人が、実はかなりの数いるということなのではないかと思ったりもする。
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そしてこの話は「本を読まないと、この生徒のようになってしまう」という話ではないし、逆に「本をたくさん読みましょう」とか「本を読めば大丈夫」とか言いたいわけでもない。言葉を教えることや、言葉を受け取ること、そして言葉を「自分のものとして使う」ことの難しさと大事さを感じてほしい。
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このスレッドを読んでくれた方々は(そしてそこにはもちろん、この文章を書いた僕も含まれている)、「運良く」言葉を「自分のもの」として使えるようになっているだけなのだと思う。だからこそ「できない」ことを責めても意味がない。自分たちができることを、少しでも伝えることが「教育」だと思う。
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蛇足だけど、塾の講師としての僕はこの生徒に、いわゆる勉強における「正解を書かせる」こともできただろうし、世の中にはそういう方法論がたくさんあることも、一応は知っている。けれど、僕にはどうしても、それが「教育だとは思えない」のだ。これからも僕は、僕が伝えられることを伝えていきたい。
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「がんばってる僕」という病と「誤りを認められない」症候群を併発した人間が首長になると、こうして「社会を混乱させても問題ない」と、自ら平気で言い出すわけですよ。イソジン会見の内容云々より、僕はこれが何より危険なことだと思ってます。 twitter.com/hiroyoshimura/…
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竹中平蔵氏の言う「月々7万円を支給する代わりに年金も生活保護もなくす」というのは、会社でいえば「月々1万支給するから、必要な備品は各自で買え、固定回線は引かないんで通信費も個人負担、雇用保険はないから各自任意で保険に入っておいてね」って感じって言えば、少しはそのヤバさが伝わるかな。
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基本的に「勉強を教わりにくる」塾の講師とは別に、学童という「子供たちを見守る場」に、それなりに長く関わってみて、改めて感じたのは「怒られたくなかったら、自分の頭で考えなさい」と言われて、考えてもまた怒られるを繰り返し、結果的に色んなことにやる気を無くしてしまった子供の多さだ。
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自分で考えたことを、ただ否定され続けた子供たちが、最終的にたどり着く考え方は「言われたことしかしない」であり、それでも言われた通りにしたくない時に取る行動は「知らない、出来ない」と、その責任を丸ごと投げ返すことになる。
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要するに、考え続けた結果「考えることを放棄する」という考えに行き着くことになるんです。そういう子供(あるいは大人でも)は、初めから考えなかったわけではなく、考え方そのものや、その考えを適切に伝える方法を教えてもらえず、その過程で考えても無駄だと「学習」するんだと思うんです。
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「自分で考えて行動できる人になる」というのは、それだけを見ればとても「正しいこと」のように見える。けれど、そのために必要なことを教えようともせず、その正しさだけを一方的に押し付け、それ以外は否定し続けることで、むしろ真逆の人間を育ててしまうことになる可能性もあるのだと思います。
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こう言った事例は、最近では「学習性無力感」などと言われていますが、人が無力感を学習するのは決して劣悪な環境によるものばかりではなく、時には「正しさに溢れた環境」でも起こり得るということを、僕たちはもう少し気にかけておかないといけないんじゃないかな。
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よく、女の子の方が精神年齢が高いと言われるけど、小学生を指導していて感じるのは、女の子の方が「大人としての振る舞いを求められやすい」だけなんじゃないのかなということだったりする。要するに「女の子らしい」とされる振る舞いの多くは「母」の役割を担わされることが多い気がするんですよ。
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男の子に求められるのは、ざっくり言うと「馬鹿でもいいから強くなれ」であるのに対して(まあ、これはこれで別の辛さはあるのだけれど)、女の子は、気遣いなどの「(男性が強くあるための)サポート」的な役割が多いようにも見えるんですよ。ある種、自分ではなく他者が中心の在り方を求められる。
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それが良い悪いの話はさておき、これだけ個人が尊重される流れの現代で、性別という大きな括りに多数の役割を割り振ること自体が、だんだんと非効率になってるのではと感じていて、むしろその「大きな役割」を今後、個人主義の社会でそれぞれがどのように負担するかを真剣に考える必要があると思う。
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実は個人と集団の利益って、わりと相反することの方が多いと思うんですよね。これまでは(あえてこういう言い方をするけど)一部の個人が社会全体を規定することが可能だったわけだけど、現代はそれがほぼ不可能になりつつあって「個人の集団としての社会」という、次の段階に踏み込みつつあるのよ。