「キモい」と絶賛話題沸騰中のこのニュースですが、例えば「バカにする」とか「ベタベタ触る」ことで「仲良くなれる」と思ってる人って、実は結構いますよね。本質的には同じようなものですよ、これ。/女性宅侵入も胸ぐらつかまれ逃走 男逮捕 #日テレNEWS24 news24.jp/articles/2021/…
これは僕もわりとイシゲさんに近い考え方をしてる。それこそ髪型が自由になったとして、最初こそ(例えば「目立ちたい」という理由などで)奇抜な髪型をする人は現れると思うけど、そのうちそれが「当たり前」になると、他人がどんな髪型をしていても気にならなくなると思うんですよね。 twitter.com/suminotiger/st…
乙武さんのこういった感性を全く否定するつもりはないけれど、ただ一つ自覚していただきたいのは、氏がこういうことを言うと「個性を受け入れるとはこのくらいでなければいけない、そうじゃない人は寛容でない」と、ある種の差別を強化してしまう可能性があることだとも思う。 twitter.com/h_ototake/stat…
①自分が面白いと思って、自分の身体的特徴を活かした笑いを表現する ②自虐などによって『笑われる』ことを戦略とする ③他人の身体的特徴を(無自覚かつ差別的に)笑う 以上はそれぞれ全く違うんだけど、そこが切り分けられてない人が、日本にはまだまだ多いと分かるリプ。
ここ最近気付いたんだけど、学生さんの中には、勉強を「正解を書かなければいけないらしいので、書き方を教えてもらうこと」だと思ってる子がかなりいて「この問題は何を答えたらいいのか分かるかい?」と質問をしても「答えに決まってるじゃん、何言ってんの?」って顔をされたりする。
この話、あるあるだなぁと思いながら読んだ。子供たちの多くは、原因を探ることを「悪者決め」だと考えているんだよね。そして、そう考えさせてしまっているのは、子供たちを指導・教育してる大人なんですよね。 twitter.com/ame_satoko/sta…
面白いことが、馬鹿にするとふざけるしかないと、人間関係が「マウント」と「いじめ」と「ハラスメント」しかないみたいな世界になっちゃうんだというのを、ここ最近リアルに感じることが多くて、知識や学びを蔑ろにするってマジでヤバいことだなって思ってる。
一見すると「役に立たない知識」をたくさん持っていると、いろんな「無駄話」が面白くなって、結果的に「人間関係が良くなっていく」んだよね。知識がないと、面白いことって「馬鹿にする」と「ふざける」くらいしかなくなって、そういう人としか繋がれなくなるのよ。
実際のところどうなんだろうと思ってググってみたら、女性の方が投票率高くて草 twitter.com/nynuts/status/…
「一人でいられない」というのは、裏を返せば「自分の存在を帰属する集団に丸投げしている」ってことなんじゃないだろうか。だから、どの集団にも属していないことが不安で、それを「恥じている」という姿勢を見せることで「自分は本来なら、どこかの集団に帰属したい」と周囲にアピールしてるのかも。
日本で行われている「みんな仲良く」って、詰まるところ「みんなと一緒にやりなさい」であって、集団に属するための訓練になってしまってると思うんですよね。勿論、そういう訓練もある程度は必要だと思うけど、もう一方で「不干渉」とか「適切な距離感」みたいなものを、きちんと教えてもらえない。
一人で食事に行ったり、一人で映画や演劇を観に行ったり、一人で旅をしたり、そういうことが「恥ずかしいこと」だと感じるのって、要するに「みんな仲良くしましょう」って教育の弊害なのではなかろうか。
ちなみに補足しておくと、シンプルに生物としての成熟速度が男の子より女の子の方が早いという科学的なエビデンスはあったはず。ただ、それも相まって、なおさら女の子には大人(特に母親的)な役割を任せやすいというのは、やっぱりあるんじゃないかなとは思います。
「社会に押し付けられる役割をこなす方がメリットが大きい」というこれまでの社会から、個人的にはある意味で「個人が主体的に役割を担う」という社会になる必要があると思うし、逆に言えば「他者の役割を理解する」こと、つまり「他者との比較をしない」ことが求められる気はしてる。
実は個人と集団の利益って、わりと相反することの方が多いと思うんですよね。これまでは(あえてこういう言い方をするけど)一部の個人が社会全体を規定することが可能だったわけだけど、現代はそれがほぼ不可能になりつつあって「個人の集団としての社会」という、次の段階に踏み込みつつあるのよ。
それが良い悪いの話はさておき、これだけ個人が尊重される流れの現代で、性別という大きな括りに多数の役割を割り振ること自体が、だんだんと非効率になってるのではと感じていて、むしろその「大きな役割」を今後、個人主義の社会でそれぞれがどのように負担するかを真剣に考える必要があると思う。
男の子に求められるのは、ざっくり言うと「馬鹿でもいいから強くなれ」であるのに対して(まあ、これはこれで別の辛さはあるのだけれど)、女の子は、気遣いなどの「(男性が強くあるための)サポート」的な役割が多いようにも見えるんですよ。ある種、自分ではなく他者が中心の在り方を求められる。
よく、女の子の方が精神年齢が高いと言われるけど、小学生を指導していて感じるのは、女の子の方が「大人としての振る舞いを求められやすい」だけなんじゃないのかなということだったりする。要するに「女の子らしい」とされる振る舞いの多くは「母」の役割を担わされることが多い気がするんですよ。
こう言った事例は、最近では「学習性無力感」などと言われていますが、人が無力感を学習するのは決して劣悪な環境によるものばかりではなく、時には「正しさに溢れた環境」でも起こり得るということを、僕たちはもう少し気にかけておかないといけないんじゃないかな。
「自分で考えて行動できる人になる」というのは、それだけを見ればとても「正しいこと」のように見える。けれど、そのために必要なことを教えようともせず、その正しさだけを一方的に押し付け、それ以外は否定し続けることで、むしろ真逆の人間を育ててしまうことになる可能性もあるのだと思います。
要するに、考え続けた結果「考えることを放棄する」という考えに行き着くことになるんです。そういう子供(あるいは大人でも)は、初めから考えなかったわけではなく、考え方そのものや、その考えを適切に伝える方法を教えてもらえず、その過程で考えても無駄だと「学習」するんだと思うんです。
自分で考えたことを、ただ否定され続けた子供たちが、最終的にたどり着く考え方は「言われたことしかしない」であり、それでも言われた通りにしたくない時に取る行動は「知らない、出来ない」と、その責任を丸ごと投げ返すことになる。
基本的に「勉強を教わりにくる」塾の講師とは別に、学童という「子供たちを見守る場」に、それなりに長く関わってみて、改めて感じたのは「怒られたくなかったら、自分の頭で考えなさい」と言われて、考えてもまた怒られるを繰り返し、結果的に色んなことにやる気を無くしてしまった子供の多さだ。
竹中平蔵氏の言う「月々7万円を支給する代わりに年金も生活保護もなくす」というのは、会社でいえば「月々1万支給するから、必要な備品は各自で買え、固定回線は引かないんで通信費も個人負担、雇用保険はないから各自任意で保険に入っておいてね」って感じって言えば、少しはそのヤバさが伝わるかな。
「がんばってる僕」という病と「誤りを認められない」症候群を併発した人間が首長になると、こうして「社会を混乱させても問題ない」と、自ら平気で言い出すわけですよ。イソジン会見の内容云々より、僕はこれが何より危険なことだと思ってます。 twitter.com/hiroyoshimura/…