河辺に行きました。
立川や ああ立川や 立川や
私は30歳を過ぎてから少しずつ、自分がどれほど愚かな人間なのかを考えるようになりました。10代、20代を振り返って、その時にやっていたすべてのことが間違っていたように感じました。しかし今の自分を振り返ってみると、誰でも理解していることをようやく理解できるようになっただけみたいです
夏が終わって秋が始まりました。もう冬のことを考えています。来年の春までは無事に生きたいと思ったり、来年の春からはどうやって生きていこうと思ったりします。いつまでも同じようには生きられません。執着している物もいつかは捨てなければなりません。どこかへ行かなければと、いつも思っています
小田急線海老名駅にはいつも、いきものがかりの「SAKURA」が流れています。
妙に張り切っていた人がその後ボロボロに崩れることがありますが、張り切っていた時点ですでに崩れかかっていたのかもしれません。人は肉体的・精神的に追い詰められて限界に近づいた時、そのことを自覚しないまま、状況を挽回しようと焦って無謀な張り切りかたをすることがあるのではないでしょうか。
心の苦しみを訴えている人に対して何が苦しいのか言葉で説明するように要求する人がいますが、言葉では説明できない場合が多いのではないでしょうか。
自分は感情と思考と肉体でできていますが、この3つはどれも自分でコントロールできませんし、これらをどのように組み合わせても、生きることへの意志、前に進もうという選択が出てこないです。こころは、自分の中にはなく、想像を越えた遠い所からときどき自分に何かを指し示しているようにも思えます
Javaで「当たっても外れてもチャカ持ってくる丁半博打」を作ってみました
何かを練習したり学んだりしている時、以前に理解し認識したはずの基本的なルールや教訓をいつの間にか忘れて迷走を続けた挙句に再び思い出すことがありますが、これはまったく無駄な繰り返しなのでしょうか。一度忘れて迷走したことには理由があり、再び思い出したことには新たな意味がないでしょうか
きょう立川を散歩しました。
八王子のデニッシュバー
とても暖かかったです
おトイレとかは心の問題ではなく身体の問題なので、たとえ心が女性でも身体が男性だったら女子トイレに入ってはいけないはずだと思います。「君の名は」みたいに入れ替わっている場合でも、身体が男性だったら男子トイレ、身体が女性だったら女子トイレだと思います。
2010年の夏に渋谷を散歩していたときの画像をみつけました
私たちには他人に依存したい、他人から依存されたいという欲求がありますが、それは心の傷や寂しさを埋めるためにお酒に酔ったり夢を見たりするような悲しい気持ちだと思います。夏の夜のお祭りに響く太鼓や光る提灯と屋台のように儚く愛おしい一時です。そこにずっといることはできないのだと思います
新年あけましておめでとうございます
家族に対して愛を持ちたくても持てなくて悲しみに沈むことが多いと思います。でも喜びをもって人を想うことができないのならば、悲しみをもってでも人を想えばいいと思います。胸の中の悲しみを感じながら深く息を吸ったり吐いたりして海岸の波のように心が動いてそれもひとつの愛なのだろうと思います
私たちは普段お外で吐き出せない心の苦しみや悲しみをツイッターでこぼして、ネガティブな言葉や攻撃的な言葉を次々に書いてしまうのです。でもそれを画面で見た人たちは本人の姿を全然見てないので、文面だけからとても怖くて凶悪な人物像を想い描いてしまうのです。みなさん気を付けてまいりましょう
JR川越線 指扇駅