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一方、国防相になってから西側記者団の取材に応じた際には「モスクワとスターリングラードはどっちが重要だったか」と聞かれて「どっちも重要」とは答えていますが「そんなことよりノモンハン」なんて答えちゃいないんですね。(続
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にもかかわらず、たとえば2005年に邦訳が出たコロミーエツの『ノモンハン戦車戦』では、ジューコフがそんなことを言ったなどとは本文には一言も書いていないのに、訳者のあとがきとやらにそんなことが書かれ、本の帯にも書かれていたりするんですね。絶対コロミーエツに許可とってないでしょ。(続
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『T-34戦車とその時代』でもいろいろ書いてありますが、こういう「専門家」がデマをばらまくのが一番アカンのですよ。2000年代初頭までの「専門家」たちのソ連軍の扱いは大概こんなものですがね。(続
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ま、そんな訳で「一番苦労したのはノモンハン」などというのは日本だけで流通しているデマな訳です。今回はたまたま反応しちゃいましたが、警察ごっこは嫌ですがデマ退治は大事で、その辺どうバランスとっていったらいいんでしょうかね。(終
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ノモンハンにおけるソ連軍は将校の損耗率が高く、ソ連軍内部でも問題視されていた。ソ連軍自体はその原因を将校が簡単に下士官兵と見分けがつく(帽子や襟章などで)こと、日本の狙撃兵が優秀なことに求めていて、将兵の回想にも偽装に工夫した話がたびたび出てくるのだが、ミリバフの粛清史では(続
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もう一つ別の理由が挙げられていて、粛清の影響で士気や練度が大きく低下した結果、将校が前線に出て何でもかんでもやらざるを得ない状況になっていたことが大きいのだという。
実際、ニコライ・ヴォロノフの回想録には前線部隊の歩兵と砲兵の連携が全然なっていないので(続
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最前線の塹壕に指導に行くエピソードが出てくるのだが、普段はモスクワにいる赤軍砲兵次長サマがいくら視察に来たからといはいえ最前線で中隊や小隊レベルの戦術指導をするという異常事態に陥っていたことを示している。